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旅行の記憶と何気ない日常を

カエサル24 東へ!

カエサルはブリンディシからギリシアへ渡り、歴史に刻まれる2つの戦いを展開します。現代に生きる僕たちは、この出来事について当たり前のように、カエサルが勝ち、ポンペイウスが負けた歴史として知っているわけだけど、紀元前48年の当事者にとっては、カエサル側であっても生きるか死ぬか、明日生きていられるかわからない、そんな時を過ごしていたのでした。そしてこの二つの戦いによってローマの内乱の勝敗も事実上決し、現代に至るヨーロッパ世界の運命が定まった、紀元前48年とはそういう年でした。

 

ドゥラキウムの攻防戦(紀元前48年7月10日)

アドリア海を望む街ドゥラキウムにポンペイウスは、いた。ポンペイウスは海を背後にして陸側に防衛網を張り巡らせる。海軍力では未熟なカエサル軍なだけに海側の防御は、海そのものとポンペイウスの海軍のおかげでおそらく何の心配もいらない。陸地では、ポンペイウスが張り巡らせた防衛網をすっぽり覆うように、カエサル軍が包囲網を建設している。

兵数ではポンペイウス軍6万に対してカエサル軍2万と、圧倒的にポンペイウス有利な状況。しかしポンペイウス軍は新兵中心で経験がない一方カエサル軍は、この8年カエサルと共にガリアで戦い抜いた精鋭が中心。この事実からポンペイウスは正面衝突を避け、本格的な戦いはせず、カエサル軍の兵糧が尽きるのを待つ心づもりだった。

本格的な戦闘ないまま時が過ぎたある日、カエサル側から寝返ったガリア兵の情報が情勢を変える。寝返ったガリア兵によって、カエサルの包囲網がまだ不完全であることを知ったポンペイウスカエサル防衛網の弱点に総攻撃を仕掛けます。包囲網の弱点である南側で大規模な戦闘が展開され、ポンペイウスは海からも軍を送りカエサル軍を挟み撃ちにした。これによってカエサル軍は総崩れのパニック状態に陥ってしまった。コントロールを失った兵士は混乱を極め、この時カエサル軍は軍旗を多数失い、体制立て直すことも叶わない。カエサルはこの状況に、素早く撤退を決め全軍でドゥラキウムから退却するのでした。この時カエサル軍は本気で全滅を意識するほどの深刻な退却行でした。「もはや、これまで」と思った兵士もたくさんいたでしょう。しかし「これまで」とはならなかったのです。

このカエサル軍の速やかな撤退をポンペイウスが見た時、この退却は「カエサルの罠」だと疑い、自軍からの追撃を許さなかった。ついこの間までガリア戦役8年間を戦ってきたカエサルの精鋭がこんなにあっさり負けるはずがない。うっかり追撃をしたら強烈な反撃を受けて自軍は総崩れになる、と考えたのでした。

実際のカエサル軍は作戦通りの撤退したわけでなく、もしこの時ポンペイウス軍が追撃してきたら、おそらく全滅していたかもしれない。カエサルはこのポンペイウスの慎重な判断に助けられた。

 

カエサルガリア戦役の最中に「ガリア戦記」を出版して毎年ガリアでの出来事、ガリア人やゲルマン人との戦いを本国ローマへ報告していた。そしてそれはローマ人なら老若男女だれもがカエサル軍の鬼神の如くの活躍を生き生きとした文章によってローマにいながらにして知ることができた。もちろんポンペイウスもその一人であり、また若い頃から軍を率いて数々の戦功を上げてきたポンペイウスは、元老院議員や普通の市民よりもっと、ずっとカエサル軍の強さを感じ取ったに違いない。おそらく「ガリア戦記」が存在しなかったら、このときポンペイウスカエサル軍を恐れることなく追撃していたかもしれない。おそらく「ガリア戦記」がこの時のカエサル軍を救ったんじゃないか、と僕は思う。

カエサルテッサリア地方のファルサルス(Pharsalus)まで撤退、体制を整えた。ポンペイウスカエサルの罠を恐れて追跡を渋っていたが、行動を共にするカエサル反対派の元老院議員たちに突き上げられ、カエサルを追ってファルサルスへの向かうのでした。

 

ファルサルスの戦い(紀元前48年8月9日)

ファルサルスは平原があり、海を挟むドゥラキウムとは地勢が全く異なる。ポンペイウス約5万4千の兵力に対して、カエサル軍は2万3千。圧倒的な兵力の差とドゥラキウムでの勝利に、ポンペイウスに同行していた反カエサル元老院の議員たちは、戦う前から勝ちを決め込んでいた。

一方でドラキウムでの包囲戦に失敗したカエサル軍だったが、今回ポンペイウス軍を平原に誘い込んでの会戦形式の戦いは、カエサルの精鋭たちにとっては自分たちの能力を最大限に引き出せる環境であり、兵数の差は全く不利とは思ってなかったでしょう。

元老院派の中で、ポンペイウスだけがその場での兵力差が自軍有利ではないことを理解していた。

そして圧倒的な兵力差のなかでも、騎兵数はカエサル軍は1400程度、ポンペイウスは7000と圧倒的に不利でした。カエサルはこの騎兵力差から騎兵vs騎兵の構図にせず、ポンペイウス騎兵 vs カエサル精鋭ベテラン兵士の布陣とした。カエサルは戦いの前にベテラン兵に対し「今日の戦いの勝敗はお前たちの勇気ひとつにかかっている!」と檄を飛ばし送り出す。突撃してくる敵騎兵に対して微動だにしないカエサルのベテラン兵士。敵騎兵のその突進を受ける度胸を備え、敵馬とその上にいる兵士への攻撃を正確に繰り出すことができたカエサルのベテラン兵により、ポンペイウスの騎兵は無力化され、総崩れになります。このカエサル右翼の攻防がこの戦いの勝敗を決し、ファルサルスの戦いは終わるのでした。

冷静に考えれば、平原での会戦を選択した時点でカエサル優位が決まったといえます。カエサルは相手の布陣から「騎兵の無力化が勝敗を決する」ことを見抜いて、最強の兵士に戦略を持たせて相手の騎兵に対峙させた。この時点でファルサルスの戦いの勝敗は決まっていたように思えます。

戦う前に「圧倒的な兵力をポンペイウスが指揮を取る」というだけで、勝利を確信して祝勝会の準備に勤しんでいた元老院派でしたが、敗色濃厚になると多くの反カエサル議員がカエサルに降伏、一部議員はカルタゴのウティカへと逃亡します。そして負けを悟ったポンペイウスもその年の執政官二人と共に早々に逃亡したのでした。

ファルサルスの戦いは戦う前にほぼ勝敗は決し、この戦いによって反カエサル元老院派の体制は完全に崩れ、カエサルが内戦の勝利者となるのでした。

 

逃亡したポンペイウスはローマの東、自分の地盤である地に逃れ再起を図ろうとしますが、ファルサルスの結果を知ったそれら地域はカエサルへの恭順を示し、もうポンペイウスを受け入れない。ポンペイウスは最後の望み、エジプトのアレクサンドリアへと向かいました。

 

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