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カエサル 25 アレクサンドリアで、

アレクサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」

"Alexandriae de Pompei morte cognoscit"

カエサルアレクサンドリアに到着すると、カエサルのもとには香油漬けになったポンペイウスの生首が届けられたのでした。そのときカエサルは涙を流した、と後世の歴史家たちは伝えています。

カエサルはこの頃についての詳細はおろか心境など、ほとんど書き残しておらず、この時の「カエサルの真意」を知る術はありません。ポンペイウスの死に際して、ローマの内戦について書き記された「内乱記」の中に、この「アレクサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」とたった一文だけが書き残されています。余計なものを一切省いたとてもシンプルな、そして果てしなく深遠なこの一文は現在にいたるまで芸術品として扱われているのです。

 

◾️アレクサンドリア

かつてマケドニアアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)は征服した各地に自分の名前を冠した街をつくります。紀元前332年に建てられたエジプトの「アレクサンドリア」はその最初の街となりました。この時からアレクサンドロスによるギリシア系の王朝=プトレマイオス朝がエジプトを統治します。アレクサンドリアは商業と文化の中心としてとても栄えます。古代世界の七不思議の一つに数えられる、ファロス島の大灯台があり、当時世界3大図書館の一つアレクサンドリア図書館が70万冊の蔵書を誇り、エウクレイデス(ユークリッド)、アルキメデス、ヘロンといった天才たちが闊歩する活気に満ちた街でした。

*現在の市旗にかたどられるファロスの大灯台

しかし紀元前1世紀の時点では、エジプトは弱体化してローマの支配下に置かれます。エジプトは古代より「ファラオ(神)が統べる国」だったため、ローマはエジプトを直接統治はせず、「王家が統治する友好国」として扱い、表向きには王朝が統治を行い、アレクサンドリアに入ったローマ人とローマ軍を駐屯することでエジプトをコントロールしました。この当時、弱体化したエジプトが独立国のように扱われ、プトレマイオス王朝が国を治めていられたのはポンペイウス(ローマ人)の後ろ盾のおかげであったので、ポンペイウス(ローマ人)はエジプト王家が支援すべき相手だったのです。ポンペイウスもその関係があるがために、逃亡先をエジプトに求めたのでした。

◾️ファルサルス後

カエサルは、ファルサルスでの勝利の後、ローマに帰還せずにポンペイウスを追ってアレクサンドリアに向かいます。カエサルは内戦開戦時点から、ポンペイウスを捕らえて自分たちに同化することが内戦終結の要素であると一貫して考えていました。

アレクサンドリアは、ファルサルスでのポンペイウスの大敗と、反カエサルの国々に対して示されるカエサルの寛容の情報は、ポンペイウスが到着するより早くアレクサンドリアにも伝わっていました。その結果、アレクサンドリアプトレマイオス王朝は、ポンペイウスをかくまい、ポンペイウス側につくことは、内戦の勝利者カエサルへの反意を示すことに等しく、エジプトの運命も危うくなる、と単純に考えた。そうしてカエサルの本意を知らない、知る由もないプトレマイオス王家は、ポンペイウスを殺害することで、カエサルに対しての自分たちの手柄を示すつもりでいたわけです。

ポンペイウスは、アレクサンドリアのその変化を予測することもできず、アレクサンドリアは自分を支援するはずだと再起を信じてのアレクサンドリア到着だったようです。

◾️ポンペイウスの殺害

ポンペイウスの到着の報を受け、アレクサンドリアからポンペイウスの船に迎えが出ました。いつもと少し様子の違う迎えの船でしたが、ポンペイウスは一人迎えの船に乗り込みます。その後まもなく、ポンペイウス側の人々がはっきり見える距離で、ポンペイウスはその船の上で首を切られ命を落としたのでした。

プトレマイオス王朝としては、あたらしいローマの君主=自分たちの支援者であるカエサルに大きな土産を得たと色めき立ったことでしょう。しかしこの行為は、最後は敗れたとしてもローマの英雄を騙し討ちにしたという構図になるわけで、プトレマイオス王朝は取り返しのつかないミスを犯したことになります(この話はまた後ほど)。

 

◾️カエサルポンペイウス

”偉大なる”ポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus)は20代のから破格の活躍で出世街道を爆走しました。スッラに従い小アジア戦線に従軍しその活躍を認められ、その後スペイン、小アジア、オリエントを制覇、地中海の海賊を一掃するなど、軍事の才は飛び抜けており、スッラによって20代のころすでに「偉大な(Magnus)」という尊称が与えられていました。

ポンペイウス

25歳で初めての凱旋式を行い、軍事の実績を提げ政界にも早くから進出、ローマでは異例特例で40歳以前に執政官就任しました。40歳を過ぎてようやく頭角を表し、50過ぎまで凱旋式を行わなかったカエサルとは対照的な人生です。しかし、軍事力ではカエサルを脅かすほどの才能を持っていたポンペイウスでしたが政治やその他の力はとても劣っていたと言います。ポンペイウスに政治的なセンスがあれば、そもそも元老院に寝返ることもローマが内戦となることもなかったかもしれません。

カエサルにとってのポンペイウスは、共に「三頭政治」を構成し密かに7年もの間ローマ政治を執り行った相棒であり、娘ユリアの夫として娘にとても幸せな人生を送らせてくれた大切な婿でもありました。確固たる政治思想と政治センスのないポンペイウスカエサルとの7年に及ぶ盟友関係を捨て、カエサルガリア平定を目の前にした頃、反カエサル元老院派に取り込まれ、袂を分ちます。

 

◾️犀は投げられて

ガリア戦役を終えた直後に、元老院最終勧告によってカエサルはローマの「国賊(反逆者)」とされてしまいます。この言いがかりに対して、カエサルが「犀は投げられた」と叫んで、国法破ってルビコン川を渡り、ローマ世界はカエサル vs 元老院派(=ポンペイウス)のという構図の内乱となります。イタリア本国からギリシアに渡り、最後はファルサルスの戦いで、カエサルが勝利した。ただカエサルポンペイウスを取り込むことが内乱終結の最重要条件を考えていたので、休むことなくポンペイウスを追ってアレクサンドリアまで行ったのでした。

 

カエサルは次の国づくりのために、どんな政敵であっても徹底して寛容を貫き、咎めることなく精神的肉体的自由を与えてきました。もしカエサルポンペイウスと会談をすることができたなら、カエサルポンペイウスに対して共同統治を持ちかけたでしょう。新しいローマを作るために。

 

実質的にローマの内戦は、このポンペイウスの暗殺をもって終わったに等しいと言います。このあともいくつかローマ人同士の戦闘があったものの、将軍のいない軍隊はカエサルの敵ではなかったと言います。

アレクサンドリアにて、カエサルは、とても複雑な心境だっただろう。

純粋に盟友の命を浅はかに奪われてしまった憂いと、人物的政治的には問題があったものの「英雄ポンペイウス」が、死んでしまったことで美化されてしまい、それを旗印にした追悼戦がはびこること=ローマ人同士の殺し合いがもうしばらく続いてしまうことへの憂と、プトレマイオス朝のお家騒動に関わることになる憂と。

 

◾️ポンペイウスの死を知った、の深遠

カエサルアレクサンドリアに到着したとき、船の上でプトレマイオス13世の使者からポンペイウスの首が献上され、カエサルはそのとき涙を流したといわれている。これは単なる想像かもしれないし、事実かもしれない。どちらもあり得るだろう。

内戦通じて「寛容」を貫いたカエサルは他の元老院派の議員や兵士を許した。感情論だけでなく様々な側面からも、奪うつもりのなかったポンペイウスの命が、アレクサンドリアで奪われてしまった。

この時のことが「内乱記」で、たった一文、

アレクサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」

と、たったこれだけ記されています。

とても短い一文だけど、カエサルの中に渦巻く深く複雑な気持ちがこの一文から滲み出ているように思えてなりません。2000年以上たった今でも、その思いが伝わってくる、そんな気がするのです。

 

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