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ちょっとローマ史11 衰退の加速

人皇マルクス・アウレリウスが病死、その息子コンモドゥスが皇帝となってからローマはおかしくなっていく。ローマ帝国が坂道をリンゴが転がり落ちるように衰退していく時代が始まってしまったのでした。そんな中でも時折、その坂の途中で足を踏ん張りりんごの転がりを拾い上げるように、その衰退を堰き止めようとする有能な人材が登場して一時的には盛り返すものの、もう衰退の流れは止めることができないほど急なものになってしまうのでした。

  後180-192

コンモドゥス 

在位12年/謀殺
  後193-193 ペルティナクス 在位3ヶ月
  後193-193

ディディウス・ユリアヌス

在位2ヶ月

後193-211

セプティミウス・セウェルス (フォロロマーノ凱旋門)

(CAESAR LVCIVS SEPTIMIVS SEVERVS PERTINAX AVGVSTVS) 

在位18年/病死

◾️最悪コンモドゥス

人皇マルクス・アウレリウスは後継者を結果的に世襲にしてしまいました。マルクス・アウレリウスは余計な対立を避け、内乱を避けるために「血」による継承を選択せざるを得なかった。当時のローマにおいて何が正解だったのかは分かり得ないのだけど、哲人皇マルクス・アウレリウスの死によって史上最悪の皇帝が生まれてしまった。

*日本に来たこともあるコンモドゥスの胸像

皇帝就任当初1年目はそれなりに過ごしたというが、その後の20から31歳までの11年間は皇帝らしいことは何一つ為さなかったと言います。コンモドゥスは政治家としても人としても崩壊していた。そのコンモドゥスが12年もの間の在位したのだけど、これはおそらく先帝マルクス・アウレリウスが残した優秀な軍団組織と官僚組織のおかげと言っていいかもしれない。皇帝らしいことは何もせず、何も残さずに過ごし、特に晩年は剣闘試合に熱中するだけ。しかも自ら剣闘士としてコロッセオで試合をしていたそうだ。

コンモドゥスは宮廷内の風呂場で暗殺されました。

コンモドゥスの死後すぐに元老院は「記録抹殺刑(Damnatio memoriae)」を決定した。 記録抹殺刑に処された3人目の皇帝となったけど、なーんにもしていなかったから抹殺する碑文すら何もないという始末。同時代人に暴君・悪帝の烙印押されるものの、後世の歴史家によってその評価が見直される皇帝がたくさんいる。でもコンモドゥスは同時代人からも後世の歴史家からも最悪の「悪帝」であったとされてしまうのでした。

 

◾️セプティミウス・セウェルスへ

コンモドゥスの治世ですっかりローマは混乱し、次は軍事力で勝るものが皇帝になるという「力」による皇位継承マルクス・アウレリウスが最も避けようとした形になってしまった。そして5つの勢力(皇帝候補)が乱立して争った結果、一時的な勝利によって皇帝が誕生(ペルティナクス、ユリアヌス)するのだけど、軍事で勝っても皇帝が務まる訳もなく、僅か3ヶ月ほどで立っては消えた。

そして193年に転がるりんごを拾い上げる人材が現れる。内乱を頭脳で勝ち切ったセプティミウス・セウェルスが皇帝となります。

*セプティミウス・セヴェルスの胸像

セプティミウス・セウェルスは18年間の在位期間で公共事業に力を入れ、軍制改革を行ったりと精力的に公務を行ったものの、その結果、深刻な財政悪化を招きローマの国力を衰えさせてしまいます。

またセプティミウス・セヴェルスは軍事力で皇帝の座をもぎ取り、その後反対勢力に対して粛清を行なってしまった。内戦の悲劇は「負けた側に居た」というだけで、粛清=殺害の対象とされてしまうことになる。そしてその中には国政を担える優秀な人材も多く含まれている場合も多く、内戦が繰り返されて、敗者側にいた者たちを粛清するということは国としてどんどん優秀な人材を失うことに直結するわけです。

だからユリウス・カエサルは最後までルビコン渡河=内戦を避けようとしました。同じ国の者同士、仲間同士が殺し合うという「人間世界の悲惨」を避けたかったという感情的なこともさることながら、戦闘によって、あるいは勝敗決した後の粛清によって、有望な人材を失い、それは国家ローマの国力を損ねる直接の原因になることを理解していたから。カエサルが示した「寛容」、内戦の最中、また勝利した後にも貫かれた敗者に対しての「寛容」は優秀な人材を失うことで国家が衰退していくことを避けるためでした。

セプティミウス・セヴェルスは内乱を収めて皇帝にはなったものの、その後の力による統治「軍事政権」への流れを確定的にしてしまったこと、優秀な人材の多くをローマから失くしてしまったことでローマの衰退をさらに加速させてしまった皇帝かもしれません。

 

セプティミウス・セヴェルスは病死するのですが、その死の床でこう言い残したそうです。

「私は全てをやった。しかし、振り返ればその全てが無駄であったようだ」

セプティミウス・セヴェルスはフォロ・ロマーノに立派な凱旋門を残している。この凱旋門は首都ローマに造られた「最後の凱旋門」となりました。古代ローマの聖域につながる重要な場所に今も残る立派な凱旋門はローマの衰退の象徴という、皮肉なものでもあるのです。

転がり落ちるりんごを拾い上げたセプティミウス・セヴェルスではあったのだけど、それは一瞬の間だけでした。その後さらにりんごは勢いよく転がることになってしまった。

人皇マルクス・アウレリウスのあと、コンモドゥスからセプティミウス・セヴェルスまでで衰退のスピードはさらに加速し、この時代から「ローマらしいローマ」が失われてしまったのだと言われます。

 

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