皇帝ハドリアヌス(在位117〜138年 CAESAR PVBLIVS AELIVS TRAIANVS HADRIANVS AVGVSTVS)
2000年ほど前の今日(138年7月10日)に皇帝ハドリアヌスが息を引き取りました。
五賢帝三人目の皇帝で、若い頃からギリシア文明に精通した文化人であり、政治、軍事から文学、芸術、数学、建築学といった幅広い学問に通じ、その多種多様な才能と明晰な頭脳を駆使して、多角的な判断、対処をすることで治世20年に渡って多くの問題を解決してきた賢帝です。また好奇心旺盛で旅を好み、皇帝在位中に長期間の視察旅行を敢行。建築家や技術者を同行させて、地方の多くのインフラの修復をしたり不足を新たに作ったり、ローマ帝国全土のインフラ再整備に尽くしました。軍人としても政治家としてもとても優れた皇帝で、後世の評価がとても高い。その一方で、性格は複雑で二重三重の人格を使い分け周囲を困惑させたり、皇帝継承方法にも疑問が残るなど、同時代人からは「暴君」と評されることもあるという、天才とも言えるその人となりはとても興味深い。
ハドリアヌスは、日本では漫画「テルマエ・ロマエ」に登場する皇帝として、暴君ネロ、カラカラ浴場のカラカラ帝と並んで名前を知られた皇帝ではないかと思います。
◾️グラエクルス
ハドリアヌスはヒスパニア(スペイン)属州イタリカ生まれ。ローマは2代続いて属州出身者による皇帝即位となりました。生まれは属州ですが、「ハドリアヌス」という名前が示すようにイタリアのアドリア海に周辺にルーツがあるそうです。また、ハドリアヌスは子供の頃からギリシア文明を心酔して、周囲からは「グラエクルス(小さなギリシア人)」と呼ばれていました。幼い頃からギリシア文明に興味を持ったことは、建築・芸術分野でのハドリアヌスの仕事に大きく影響を与えますます。
◾️皇帝就任の疑惑
透徹した頭脳によって早くからトライアヌスに重用されます。ハドリアヌスはその期待に応え、政治も軍事も多くを経験して成果もあげていくのだけど、歴史家によってはハドリアヌスはずば抜けて優れていたわけではなかったという人もいる。紀元118年にトライアヌスがパルティア遠征に向かう途中で病死する時に、トライアヌスはハドリアヌスを養子に迎え帝位を渡す、と遺言したとされている。でもそれが捏造だった、とする説もある。当時トライアヌスの遺言を知り得た四人の執政官と元老院議員たちがその直後に殺されたことによって、そんな説もあるわけだけど、いずれにしても真実はハドリアヌス以外知る術がなく、またそれが疑惑としてハドリアヌスにある「闇」を世間に広めることになるのです。
◾️皇帝ハドリアヌス
僕は、その後のハドリアヌスの皇帝としての働きを見れば、正当な帝位継承があったと考えます。もし無理やり自分が皇帝になるために執政官を殺害するような人物であれば、その後の皇帝としてのハドリアヌスの行動は考えられない。
それを想起させる事柄は、まずパルティア遠征の撤退。もしハドリアヌスが野心・虚栄心のために皇帝になった人物なら、迷わずパルティアに攻め込んだでしょう。ところが実際は、パルティアにアルメニアを返還して講和を申し入れる。またゲルマニアとの境界線もトライアヌスによる拡大からアウグストゥスが示した範囲まで縮小し、帝国ローマの防衛線の強化に努める。最大版図を捨てて国の安全保障を万全にする、これが皇帝ハドリアヌスの判断でした。帝位を奪い取るような野心満々の皇帝がパルティア撤退や領土縮小を行うとは思えません。ハドリアヌスのこの判断は当時のローマの状況を冷徹に分析して出した、虚栄心などとは無縁のとても合理的なものです。
またパンテオンの事例のように、まるっきり建て替えた新いパンテオンに、自分の名前ではなく、元のパンテオンを100年前に建てた「アグリッパ」の名を刻む。先人に敬意をもって修復した後も自分の名前ではなく先人の名前を刻み残した。日本の宮大工のような振る舞いです。権力が欲しくて無理やり帝位を奪うような人物が、たくさんの建物を建て、公共インフラを修復しても自分の名前を刻まず、先人の名前を刻むようなことをするだろうか、と思うわけです。
*ハドリアヌスが建てたがアグリッパの名前が刻まれるパンテオン
もう一つ注目する事柄として、ハドリアヌスが行った社会福祉政策。それは貧困家庭や社会弱者の救済のための法律の策定でした。過去その見返り欲しさに富裕層を優遇する政策を行う者は大勢いました。おそらくこの法律によって「感謝」が返ってきても、お金も地位も降ってこない。そんなところにハドリアヌスは尽力したと言います。
そう考えるとトライアヌスが亡くなった時に起こったいくつかの事変は、ハドリアヌスの正当防衛的な面が強かったのではないかと思えます。あるいは、ハドリアヌスに近い人物か、ハドリアヌスが冷静な判断を実行に移すために行った周到に準備された必要な行動だったのかも。そうだとすると、ハドリアヌスの悪評付る事柄「二重三重人格」による混乱も、そういった反乱や攻撃から逃れ、邪魔されないための策だったのかもしれません。天然の変人と思わせて、実は全て計算ずく、そんなこともあるかもしれません。
◾️ハドリアヌスの名前を冠する
ハドリアヌスはその明晰な、天才とも言える頭脳を存分に活用して皇帝の公務を遂行します。帝国領土の縮小や、公共インフラの再整備はその優れたバランス感覚のなせる技です。
ハドリアヌスが関わったものに、ハドリアヌスの名前は刻まれないのだけど、各地にハドリアヌスの名前がついた建物が散らばっています。例えばアテネ再建に感謝して建てられたハドリアヌスの凱旋門、現トルコのエフェソスの市民がハドリアヌス訪問を記念して建てた可愛い感じのハドリアヌス神殿、ローマにはハドリアヌスの死後、神格化したハドリアヌスを称えたハドリアヌス神殿などが挙げられます。
*エフェソスのハドリアヌス神殿
数少ないハドリアヌスが建ててハドリアヌスの名前がついているのは、イギリスの防衛線として作られた、「ハドリアヌスの城壁(長城)」。北に逃れたローマに属することを嫌ったガリア民族との境界線として、イギリス北部を東西に貫く城壁。数少ない「ハドリアヌスが建ててハドリアヌスの名前を冠した建造物」です。
現在のハドリアヌスの長城。現在のスコットランドから蛮族侵入の防波堤(の跡)。
◾️共感
僕にとって、ハドリアヌスはその生き方にとても共感する「皇帝」というか、「人物」の一人。ハドリアヌス帝の何に共感するかといえば、皇帝となった後に行った、上に書いてきたような自尊心や虚栄心からは遠く離れた数々の行動に共感する。
でも最も共感するのは、皇帝在位期間の約半分の10年を帝国領土各地を旅して周ったこと。建築家や技術者を同行して各地巡りながら公共インフラをメンテナンスしたり、足りないモノは新たに作ったりと、広大な帝国領土にはハドリアヌスの足跡がたくさん残っています。僕も10年かけてローマ帝国領土を旅して巡った。見たことない街に驚き、土地ごとの文化の違いに感嘆して、息を呑むような景色に感動して、でも空だけはどこにいても同じく素晴らしいんだよなあ、とか思って。見てる景色は2000年の時を経て違うけど、同じように感動したり、堪能したり、冷や汗かいたりしたんだろうな、と。
◾️晩年
ハドリアヌスはローマ近郊のティボリにヴィラ・アドリアーナ(Villa Adriana)という広大な別荘を建てます。ここはハドリアヌスが10年の視察で巡った様々な地域の建物や景色が再現されています。行きたいと思いつつ、行けてない古代ローマの遺跡です。
135年ハドリアヌスは病気にかかり、元老院をそっちのけで後継者をアントニヌスに決めて養子縁組をします。さらにその次の皇帝となるなるマルクス・アウレリウスをアントニヌスの養子とする。そして138年7月10日(2000年ほど前の今日)に息を引き取ります。ハドリアヌスの霊廟は今でもローマに残っています。バチカンのすぐそばにあるサンタンジェロ城がハドリアヌス霊廟です。今ではたくさんの天使に囲まれた要塞のようです。
ハドリアヌスは自分の人生を「回想録」という書物にまとめていました。しかしこの「回想録」は失われ、読むことはできません。その時々にハドリアヌスが何を思ったか詳細を知ることはできない。でも、ハドリアヌスが皇帝として行ったことは残っている、各地に感謝して讃える建物がたくさん残っている。また帝国各地のどこを回って何を成したかの記録は、その時々に発行されたコインが伝えてくれる。
僕の勝手な主観かもしれないけれど、ハドリアヌスは五賢帝の中でも「カエサルに匹敵する頭の良い皇帝」と思うと同時に、その生き方に共感します。もちろん実際にはいろいろドロドロしたところは沢山あっただろうし、実際に変人だったかもしれない。でもこの優れた部分に僕は惹かれ、こうありたいと思うのです。