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古代ローマ小話 トライアヌスの躍進

ローマ史上「全盛期」と言われる期間、その最初を担ったのが皇帝トライアヌス(CAESAR MARCVS VLPIVS NERVA TRAIANVS AVGVSTVS)

トライアヌスヒスパニア(現スペイン)属州に生まれた史上初めての属州生まれの皇帝となりました。生まれなんぞどこだって、実力があればいいじゃないか、と思うのですがトライアヌスの前ネルヴァまでの皇帝たちは、皆本国ローマの生まれだったこともあり、トライアヌスを説明する時には、たいてい「初めての属州出身」という肩書きがつく。そんなトライアヌスの在位期間は19年で軍事の才を活かしてローマの版図(領土)を史上最大にすると同時にゲルマン系北方民族との防衛線を整え、国の安全保障を揺るぎないものきしました。また本国であるイタリア半島を中心に、総合商業施設や橋、水道など多様で実用的な公共建築やインフラを多く整備するなど、国の安定と発展に力を尽くすことによってローマ最盛期の賢帝の一人として、歴史に名を刻むことになります。

私生活は極めて質素で、ローマ市内の移動は常に歩き、人の話にじっくりと耳を傾け誠実に答える、誰に対しても謙虚に振る舞うとても実直で真面目、誰からも好感を持たれる人物でした。

 

◾️トライアヌス前夜

トライアヌスの前、先帝ネルヴァはさらにその前の「暴君ドミティアヌス」が暗殺された後のローマを託されます。ネルヴァはその優れたバランス感覚によってローマの混乱を最小限に食い止めた五賢帝最初の一人。そのネルヴァが後継者として選んだのが全く血縁のないトライアヌスで、ネルヴァは血縁のないトライアヌスへスムーズに帝位が渡るように事前策をうちます。在位中にトライアヌスを共同統治者して周知させ、養子縁組を結ぶ。ネルヴァ自身、帝位に着いたのは60歳の時、健康状態が良くないことを考慮してのことでした。実際にネルヴァは2年もたず紀元98年に62歳で病死、トライアヌスはその帝位を引き継ぎます。

ネルヴァは見事に、次の時代を託せる皇帝へ国家ローマを引き継ぐことに成功したのです。

◾️皇帝トライアヌスの誕生

真面目で実直、軍事の才能と政治力、溢れ出る人間性を備えた皇帝が誕生しました。さらに身長190cmと言う体格は見た目にも威風堂々とした皇帝であり、ローマの人々はトライアヌスにローマを託すことに安心感を持ったことでしょう。

 

◾️神君アウグストゥスに逆らう

真面目で実直なトライアヌスが、初代皇帝アウグストゥスの決めたルールを破ります。

神となったアウグストゥスが90年前に定めた「ローマ帝国領土をこれ以上拡大してはならない」というおふれは、帝政であっても広大な領土を管理する限界がある。それでアウグストゥスは「これ以上領土を拡大しないこと」を後世の皇帝たちに示したのでした。

トライアヌスは皇帝就任後5年でこの禁を破ります。

実直真面目なトライアヌスはなぜ、神であるアウグストゥスの禁を破ったのか。。ということに僕はとても興味をそそられるのです。

 

トライアヌスは在位中に、ダキア(現ルーマニア)とパルティア(現イラン周辺)の攻略を試みます。ダキア戦役は実際に行われ、パルティア戦役は未遂に終わります。

トライアヌス後のローマ帝国版図

 

◾️ダキア戦役

当時ローマ帝国の北側国境は、西はライン川で北海まで、東はドナウ川黒海まで、強力な防衛線が敷かれていました。その中で、ドナウ川の最東にあたる場所、黒海の近くにダキアはありました。皇帝になる前から北方境界線の防衛に当たっていたトライアヌスは、ダキア問題を捨ておいては帝国全体の安全保障に支障が出ると考えていた。

最初のダキア戦役は紀元101年に行われ、ローマ軍が勝利して、ローマとダキアは講和を結びました。トライアヌスとしては「ここで終わり」と考えていたはず。

ところが紀元105年、ダキアが講和を反故にしてローマに戦争を仕掛けてきます。トライアヌスドナウ川にかけた壮大な石造りの橋(トライアヌス橋)をきっかけに、講和を破りダキアがローマに戦争を仕掛けてきたのです。これをローマが迎え撃つわけですが、歴史的にも一度講和を結び恭順を示した相手が、裏切り行為をした相手に対して、ローマは容赦ない。ローマ軍は徹底的にダキアを攻め、ダキア人は殺されるか、奴隷にされるか、ダキアの地から追い出されるかしかなかった。トライアヌスダキア人のいなくなったダキアの地にローマ人を移住させ、ローマの街を作りダキアをローマの属州にしました。

こうしてローマの版図が更新され史上最大となったのでした。

結果的にダキアがローマの属州となり版図が増えた。トライアヌスは領土を広げるつもりはなかったが、ダキアの裏切りによってやむを得ず属州化することになり、ほんの少し領土が広がった。少しとはいえ、ローマ領土は更新されトライアヌスは「史上最大版図を実現した偉大な皇帝」としてその後二千年に渡って讃えられることになった。

 

真面目で実直なトライアヌスは、アウグストゥスの禁(意図)を破って版図を広げるなど考えていなかったでしょう。「神様の禁を破って、ローマを最大した」と讃えられたトライアヌスは真面目なだけに、相当に恐縮したのではないかと想像します。

 

◾️石の記録

とても真面目な皇帝であったトライアヌスは自分自身の栄誉や後世の評価のためにダキアを攻めたわけではない。帝国領土の安全保障の観点からダキアを攻めた結果、最終的に属州化する(せざるを得なく)ことになった。

この時の様子をカエサルが「ガリア戦記」を残したように、トライアヌスは「ダキア戦記」を記しました。しかし後世に「ダキア戦記」は失われてしまい、トライアヌスが当時何を考え何を書き残していたかは、現在知ることができません。しかし、ダキア戦役の記録はトライアヌスの記念柱の表面に螺旋レリーフとして追うことができます。

トライアヌス記念柱

◾️憂のパルティア

トライアヌスが行った戦役のもう一つが東方パルティアに対するものでした。パルティアは上の地図の右端、現在のイランのあたりに位置し、その民族性から長年ローマと対峙してきた。ローマとパルティアの関係は、古くは古代ギリシアの時代からのギリシア文明とペルシア文明の対立であり、その後ギリシアを取り込んだローマがその対立もそのまま引き継いだと言う構図です。これまでも事あるごとにローマはパルティアと対立し戦禍を交えてきた歴史があります。それもローマにとって苦い歴史も多く刻まれます。

三頭政治の一角クラッススが執政官として行ったパルティア遠征で敗れ、囚われ、処刑されてしまう。ローマの現職執政官が敵地で囚われ処刑されるという一大事が起こったのもトライアヌスから150年ほど前の出来事で、過去カエサルも内戦終結後にこの事件の後始末にパルティア遠征を計画しました。ローマ市民もパルティア問題決着に大いに期待したのだけど、直前にカエサル暗殺によってパルティア遠征が実現されることはなかった。

ローマからは東の果ての遠きにあるパルティアはローマがあるかぎり、時々ローマを揺さぶってくる。パルティアに対する完全勝利はローマ人にとって先祖代々の悲願でもあったので、今回真面目で実直なトライアヌスカエサルの意思を継ぎ、ローマ人の悲願達成を目指したのかもしれない。

 

しかしパルティアへ向かう途中で、病に冒され体調が急変、パルティアに着く前にトライアヌスは病死してしまいます。よってトライアヌスとローマ人のパルティア制覇の夢は露と消えるのでした。

トライアヌスのパルティア遠征にまつわる記録はやはり少ないらしく、ダキア戦役の必要性とは違いなぜパルティア遠征を行うことになったのか経緯ははっきりしていません。パルティア側がローマに対して攻勢をかけてきたわけではない、この時期になぜトライアヌスがパルティアを攻める決定をしたのか、疑問が残ります。

ローマ人の立場で見れば、カエサルトライアヌスのどちらかが遠征を実行していたら、ローマ人にとってのパルティア問題は終わっていたかもしれません。同時に後世のイスラム勢力のヨーロッパ進行はなかったのかも。でもそうだとすると、スペインで花開いた素晴らしいムデハル洋式の美術や建築が生まれなかったかも。。など、ありえない「歴史のもし」を想像してしまいます。

 

ローマ絶頂期の皇帝として十分すぎるほど役目を果たしたトライアヌス。その偉業とは裏腹に、普段の立ち居振る舞いは威張ることなく、とても質素で人間思いの皇帝だったといえます。「ローマ史上最盛期を作り上げた皇帝」の名にふさわしい人物だったと言えるでしょう。

 

トライアヌスの死を受けて、ローマは次の皇帝の時代に移ります。トライアヌスに続き属州で生まれた後継者は、前例にない考え方でローマをさらに盛り上げていく人物です。

次回、僕がカエサル以外で最も共感する皇帝ハドリアヌスを紹介します。

 

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