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ちょっとローマ史10 帝政初期〜五賢帝の時代

古代ローマは王政から共和政、共和政から帝政へ長い歴史の中で国の政体を変えてきました。紀元前753年の建国から約250年は王政、そのあと約500年は共和政です。

◾️王政から共和政へ

王政から共和政への変化は、王政の後半にいわゆる「暴君」があらわあれ、それを嫌ったローマ人たちが自ら王政を放棄したことによるものです。もともと伝統のない新興国家だったローマには伝統的な「王家の血筋」はなく、推薦や選挙によって王が選ばれたりもするので、「王」といっても世間一般にいわれる「王様」とはちょっと違う。もともと王の血筋のないローマだから、王政を捨てることも特にこだわりはなく、王政から共和政への移行はそれほど大きな混乱はなかったと言えます。

 

◾️共和政から帝政へ

共和政から帝政への変化は、拡大したローマ領土を統治するのが元老院体制では無理であったことと、そもそも共和政が五百年も続いたことによって指導層である元老院の腐敗と機能不全が顕著になったことによります。それを放置することはローマ衰退に直結することをいち早く見抜いたカエサルが「帝政」をグランドデザインしてその道筋をつけたのでした。ところが王政から共和政への移行時と違い、市民も元老院派も「共和政」から変わることに拒否反応を示すことになります。王政から共和政の移行では、誰がみてもわかりやすい「暴君」という弊害があった。共和政から帝政の移行では、多くの人々がまだその弊害と帝政の本質を理解することができなかった。その結果、帝政への移行は困難を極め、ローマは「カエサルの暗殺」と二十年近くにわたる「内戦」という代償を払うことになるのでした。

◾️帝政の完成

初代皇帝アウグストウスは、カエサルが作った帝政のグランドデザインを着実に実現していきます。皇帝就任当初から反対派を欺き、表向きは共和政を維持すると公表し、でも実際は少しずつ帝政へと構造転換を進めていく。皇帝在位44年の間にゆっくり、そして着実に帝政(=皇帝による中央集権)に向けたあらゆる制度を整備します。帝政に向けた制度は状況に応じて絶え間なくメンテナンスや修正を行うことで現実とのフィッティングを行なっていく。こうしてその後約500年持ちこたえるローマ帝国の政治システムが築き上がるのです。また兼ねてから紛争が起きてきた帝国のゲルマニアとの防衛線(国境)をライン川からドナウ川まで広げることで国防を強化・盤石化すると、アウグストゥスはそれ以降、帝国領土を拡大することを禁止します。アウグストゥスは政治システムと統治範囲を定めることによって安全保障のバランスを保ち、平和を維持できる国の形を定義しました。ここに「ローマ帝国」が完成するのでした。

 

 

◾️愚帝の時代

76歳で亡くなったアウグストゥスの後を継いだ皇帝たちは、それぞれ評判が悪い。

第2代皇帝ティベリウスは「恐るべき」と称される悪帝として歴史に名を残す。

第3代皇帝カリグラは全く政治を分からないまま皇帝となって帝国の大混乱を招く。

第4代皇帝クラウディウスは周囲から軽視され帝国のコントロールを失う。

第5代皇帝ネロは「暴君」として時空を超えて有名な皇帝となる。

天才カエサルとその意志を継いで立派に帝国を築いたアウグストゥス。しかしその後に続く皇帝たちは、揃いも揃って「悪名」のレッテルを貼られてしまいます。それぞれ即位当初は志高くあったものの、いろいろな理由で徐々に悪帝へと変貌してしまう。中には悪帝に仕立て上げられた皇帝もいて、後世その功績が見直されたりしている。とはいえ「天才」や「スーパーマン」はもちろん、「善良な皇帝」もそうそう登場するものではないようです。しかし、皇帝が悪帝であっても、国として機能できたのがローマの「帝政」であり、そんな悪帝たちの治世であっても帝政ローマはなんとか崩壊することなく平常運転を続けることができた。その意味でカエサルが考え、アウグストゥスが完成させた帝政は、「悪帝」も前提に考えられていた、凄みを感じざるを得ないのです。

 

皇帝「暴君」ネロが暗殺された後、わずか2年弱の間に三人の皇帝が即位しては暗殺されてしまいます。アウグストゥス即位からほぼ100年、帝政は完成したが、皇帝に恵まれないローマがそこに漂っていたのでした。

 

◾️コロッセオによる復権

紀元後69年にようやく皇帝らしい皇帝が現れます。皇帝ヴェスパシアヌスは混乱するローマを平定し、首都ローマに巨大な闘技場「コロッセオ」を建設します。政治のための有効な道具として作られたコロッセオは、ローマの芸術と技術の最高峰として建てられ、その威光は現代まで保たれています。

ヴェスパシアヌスの後を継いだのは彼の長男ティトゥスポンペイの街を滅ぼした「ヴェスビオ火山の噴火」という未曾有の自然災害に果敢に立ち向かい、短い生涯・在位期間を終えます。その後を継いだ次男ドミティアヌスはローマの国防を強化して、公共施設の建設も精力的に行った皇帝らしい皇帝だったのだけど、元老院を封じるために告発を奨励し、多くの元老院議員を処罰したことが仇となり、最後は暗殺されてしまいます。皇帝らしい皇帝ドミティアヌスは暗殺後、「記録抹殺刑」となりあらゆる碑文から名前を削除されてしまうのでした。

 

悪帝、暴君から引き継いだローマを、ヴェスパシアヌスとその息子たちが約30年統治しました。コロッセオの完成という現代に続く大遺産を完成させた一族も、最後の皇帝は「悪帝」として暗殺されてその時代に幕を閉じるのでした。ドミティアヌスティベリウス歴史的評価をみるにつけ、何が真実なのか分からなくなります。

 

◾️五賢帝の時代

これまで帝政ローマの歴代皇帝を辿ってみても、優れた皇帝は三人も続きません。しかし紀元96年から続く五人の皇帝は、優れた皇帝=賢帝として歴史に刻まれる。このとても稀な時代にローマは絶頂期を迎えることになります。

皇帝ネルヴァ 在位2年ほどの短期間でありながら混乱を納め、次の皇帝へ繋ぐ

皇帝トライアヌス 帝国の領土を最大に広げ、ローマの公共施設を拡充していく

皇帝ハドリアヌス 在位期間中に帝国中を歩き回り、多くの公共建築を残す

皇帝アントニヌス・ピウス もっとも平和な時代を維持した皇帝

皇帝マルクス・アウレリウス 哲人皇帝として、帝国で起こる数々の問題に対処

この五人の皇帝が統べる紀元96〜180年の84年間は「五賢帝」の時代として人類史上稀に見る平和な時代として歴史に刻まれます。

 

◾️皇帝とローマ帝国

こんな風に、さまざまな皇帝が入れ替わりローマは統治され維持されてきました。帝政という政体は、カエサルアウグストゥスのように優れた皇帝ではない、むしろ愚帝、悪帝であっても統治機能が維持される仕組みとしてデザインされていた。これによって悪帝が続く時代であっても帝国は機能して続き、よくもわるくも揺られながらも沈むことなく発展してきたのでした。その結果、帝政移行からこの200年余りでローマは最大版図を誇る絶頂期を迎えることになるのでした。

五賢帝以降の皇帝たちはまた、ローマに混乱をもたらす愚帝が続きます。五賢帝の世紀はローマの絶頂期であり、ローマの平和をもっとも謳歌した時代であると同時に、ローマの衰退が始まった時代でもあったのです。

 

僕はこの後、優れた皇帝たちのこんなところについて考えてみたい・・・

皇帝ティトゥスはどうやってポンペイの街が消えた大災害に対処したのか?

皇帝トライアヌスはなぜアウグストゥスの領土拡大の禁を破ったのか?

皇帝ハドリアヌスはなぜ帝国を隅々まで歩き尽くしたのか?

皇帝アントニヌス・ピウスと皇后ファウスティナはどんな夫婦だったのか?

皇帝マルクス・アウレリウスはなぜ哲人皇帝と呼ばれたのか?

追々

 

*昨日、眠い目をこすりながらこっくりこっくり作文して、よく確認もしないで公開したことを後悔しています。読み返し、我ながら酷い文章を書いたものだと反省して、修正をいれました。

 

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