皇帝ティトゥス(TITVS FLAVIVS CAESAR VESPASIANVS AVGVSTVS)はフラヴィウス朝2代目の皇帝として、紀元79年に即位します。ところが、その即位とほぼ同時にヴェスヴィオ火山の噴火、ローマの大火、疫病という未曾有の災害に見舞われ、逃げることなく対策に挑んだ結果、最後は疫病によって生涯を閉じる。その治世はわずか2年という短命の皇帝となってしまいました。
ローマのフォロ・ロマーノの遺跡にはティトゥスの凱旋門が今でも保存状態よく残っています。この凱旋門は、まだティトゥスが皇帝になる前の30歳の時、コロッセオを建設した先帝ヴェスパシアヌスの長男として、先帝の代わりに総指揮をとったエルサレム攻略戦で勝利したときの立派な凱旋門です。
◾️良き皇帝と災害
ティトゥスは自身が40歳を目前に父である先帝ヴェスパシアヌスが死に、紀元79年6月に皇帝となりました。「良き皇帝であること」を志し、治世が始まります。
その2ヶ月後、紀元79年8月ヴェスヴィオ火山が大噴火します。ナポリ近郊に位置して、今でもナポリの街から大きく見えるヴェスヴィオ火山は過去何度か噴火の記録がある。この紀元79年の大噴火は、当時の風向きによってナポリとは反対側の街々へ火砕流が襲い壊滅的な被害が発生します。特にポンペイの被害は甚大で火砕流で人々は死に、わずか一晩で火山灰が6mも積もり、直後に雨が降り、積もった火山灰が固まってしまいます。実はこれによりポンペイの遺跡が綺麗に保存され、近代の発掘によってあの壮大なポンペイの遺跡がある、、となるのです。
ポンペイだけでなく、たくさんの街が壊滅し、多くの人が亡くなる大災害に対して、皇帝ティトゥスは、現地に対策本部を置き、皇帝自らそこに身を置き、未曾有の大災害への対処を素早く行うために陣頭指揮をとります。
それからわずか1年後、翌紀元78年には首都ローマの中心部で大火事が発生し、その災害対策に奔走します。
さらに翌紀元77年には、首都はじめイタリア半島全体を疫病が襲います。
これら度重なる災害に対して、ティトゥスは怯むことなく、それぞれ先頭切って事態の収拾に勤めたのでした。しかし皇帝ティトゥスはローマで発生した疫病にかかり、命を落としてしまうのです。
わずか2年ほどの治世でしたが、その献身的な姿はローマ市民に「良き皇帝」として記憶されました。
皇帝ティトゥスはなぜ、身を粉にしてローマの災害対処の陣頭指揮を取り続けたのか。
もちろんローマ市民の安全確保は皇帝の責務。この時のティトゥスの行動は、皇帝の責務ということ以上に、ティトゥスが即位当初あるいは即位する前から、「良き皇帝」とは何かを想定して、そうなるよう努めたから。過去の記録によって、ネロやティベリウスがどんな皇帝であったのかを学んだ。実直な皇帝である父ヴェスパシアヌスと一緒に軍事経験や政治を学ぶにつれ、皇帝とはどうあるべきかをティトゥスなりに答えを持っていただろう。自分の考えに忠実に、自分が考えた「良き皇帝」がとる行動を実践した結果がこの未曾有の連続大災害に対するティトゥスの行動に現れたと思います。
ティトゥスは肩書より本質を求めた。肩書きに見合った本質を求めた。
多くの人が皇帝ティトゥスを称賛したけど、後世の歴史家たちは厳しい(というか意地悪い)。「在位期間が短かったから、良き皇帝のまま治世を終われたのだ」と。確かに先に治世を終えた、悪帝とよばれた皇帝たちは在位当初は志高かった。そしてだんだんと悪帝へと変貌していったことを思えば、この歴史家たちの見方も一理あるかもしれません。
◾️身近な皇帝
でも、皇帝ティトゥスは治世が長くても、「良き皇帝」でいたと僕は思う。
皇帝ティトゥスは公衆浴場をよく使ったと言います。でも、皇帝が入浴するからといって、浴場を貸切にして市民を追い出したりはせず、奴隷やさまざまな階層の市民と一緒に、公衆浴場を普通に使用していたのです。
今の社会でも存在する肩書きだけ追い求める人々は、その肩書きを振り翳したがる。きっと公衆浴場から市民たちを追い出し、皇帝として一人で貸切浴場を楽しんだに違いない。ティトゥスは肩書きなどお構いなしに、市民たちと一緒に入浴を楽しんだ。
本人の意思とは関係なく、ティトゥスは疫病に倒れ人生と治世を閉じたわけだし、それまでの2年はひたすらローマに降り注いだ災害を振り払うために、心血注ぐ日々だっただろう。生前は疑いを挟む余地のない「良き皇帝」であった。きっと治世が長く続いてもティトゥスは「良き皇帝」であり続けただろう。2000年後の現代まで、フォロ・ロマーノにはティトゥスの凱旋門が大切に残されている、その理由がそこにあるような気がします。