cafe mare nostrum

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カエサル小話 カエサルの右腕

カエサルが帝政国家への改造に着手した直後、ユリウス暦が適用されてまもなくの紀元前45年3月「ムンダの会戦」という戦闘が起きます。このムンダの会戦は元老院派の残党との戦いで、元老院派を率いて散ったのはカエサルの元側近、側近中の側近、「カエサルの右腕」ラビエヌスでした。

◾️ムンダの会戦

実質的に内戦の終わりとなった北アフリカでの「タプソスの戦い」で、敗北決した後にポンペイウスの長男と次男、元老院派の軍を率いたラビエヌス等は、ひと足先にスペインに逃れました。その後、彼らはスペイン属州民を煽って反カエサルに蜂起、兵士の数は8万にも膨れ上がります。カエサルは最初、側近達を派遣して鎮圧にあたったものの抑えきれず、新しい国づくりを一旦中断して、自ら軍を率いてスペインに向かいます。3月17日、ムンダ(現オスナ付近)の地でカエサルの軍と元老院の残党軍は対戦します。この戦いは(も)兵数では劣勢のカエサル軍が勝利します。激戦ではあったにせよ、終わってみればカエサルは圧倒的な勝利を収めます。一度許されたあとに反旗を翻したポンペイウス派は、全軍の半分近くの3万もの戦死者を出し壊滅。軍を率いたラビエヌスは戦死しました。

◾️カエサルの右腕

ラビエヌス(Titus Labienus BC.100頃- BC.45  3月17日)はカエサルと同年代でした。

ラビエヌスはいくつか軍団経験を詰んだ後、市民の代表「護民官」になり、そのころからカエサルとの関係が始まります。カエサルが紀元前63年に「元老院最終勧告」の非合法性を示す裁判を起こしたときも、護民官ラビエヌスと共闘したものでした。これ自体は元老院側に阻止されるのですが、失敗すればともに再起不能になるかもしれないこの危険な裁判をともに戦ったこのころに、二人の絆は強力なものとなり、カエサルとラビエヌスの二人三脚が始まったのでした。その後、ガリア戦役を通して17年間を共に生きた。カエサルにとってラビエヌスは一を伝えれば十も二十ものことを理解して、的確に行動して結果を残すこれ以上はないほどの信頼を寄せることができる副将で、ラビエヌスにとってのカエサルはかけがえのない戦友であり、絶対の信頼をおける上司だったと言えます。カエサルガリア戦役を通して、もっとも困難な局面、重要な局面には必ずラビエヌスを送り、ラビエヌスはカエサルの期待に応えてきました。

◾️それぞれのルビコン

ガリア戦役最後の紀元前50年夏頃、元老院派がラビエヌスに接近して、ポンペイウス軍への寝返りを迫る。カエサルは早くからそのことを察知していたのだけど、何をすることもなかった。

そして紀元前49年1月7日にカエサルに対して「元老院最終勧告」が発令され、1月12日にカエサルルビコン川を渡ります。

「進もう!神々の待つところへ、我々を侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」

カエサルはそのとき、第13軍団の軍団兵とともに大きな決意をもってルビコン川を渡りました。しかしそこにはラビエヌスの姿はありませんでした。

◾️本当の理由

本当の理由は本人にしかわからない。

歴史の分析の中では、平民出身のラビエヌスの家系は代々ポンペイウス家のクリエンテス(いわば「従」)の関係だったことがわかっており、23歳のポンペイウスが自前の軍団を編成してスッラの軍に参加した時、そのポンペイウス軍の一兵士として17歳のラビエヌスがいたといいます(諸説あり)。平民出の真面目な軍人であったラビエヌスにとってポンペイウス家から戻ってこいと言われたら、戻るしかなかったのだろうと言われる。そこにはもちろんたくさんの葛藤もあっただろう。ポンペイウスからの要請を断ることはラビエヌスの家系、親族一同にも影響することもあっただろう。未来ではない今を選択することしかできなかった、それが当時のラビエヌスの立ち位置だったといえます。

一方で、元老院派がラビエヌスに接触していることを知っていながら何も動かなかったカエサルは、ラビエヌスのことを熟知していたからこそ、自分のもとに留まることを期待しながらも、ラビエヌスがポンペイウス側へ行く選択をすることはわかっていたはず。カエサルはここでも自分の考えに忠実に、ラビエヌスもそうあって当然だと考えた。

元老院派は、カエサルのもとを去り自分たちのところに参加するラビエヌスに対して、カエサル軍の切り崩しを期待したが、ラビエヌスは実子と従者を連れただけで、切り崩しなど一切せずに配下の軍団兵は誰一人連れて行くことなく、さらに荷物は全て陣営に置き去りにして身一つでカエサルのもとを離れる。

ムンダの会戦においても、ラビエヌスはポンペイウス家のクリエンテスとしてポンペイウスの遺児を盛り立てポンペイウス家の再起を目指す。そこには政治的な野心は微塵もなく、ポンペイウス家に尽くすために生きる、ただそれだけ。ラビエヌス家の人間なら当然の責務であると、ラビエヌスは信じて行動したのだと思います。

カエサルの方もそれが裏切りとは考えなかったし、ラビエヌスに対してもに怒りや恨みといった感情はなかったと思う。カエサルもラビエヌスもローマ人として真摯に生き、自分の考えに忠実に生きること選んだだけなのです。

 

カエサルルビコンを渡るのを待って、ラビエヌスはカエサルの陣営地を去りました。陣営にはラビエヌスの荷物がそのまま残っていたのだけど、後日カエサルはそれをまとめてラビエヌスのもとに送ってやりました。

そしてムンダの会戦が終わった時、戦死したラビエヌスの遺体に対面したカエサルでしたが、ポンペイウスの死の時と同様、ラビエヌスに対しての感情は何も残っていない。

でも、ムンダの会戦を記した「ヒスパニア戦記」に一文だけ「ラビエヌスも戦死し、葬られた」と記されている。そう、「葬られた」のです。

 

カエサルにとってラビエヌスは同志であり戦友、絶対的な信頼をおく右腕でした。ともに戦い、新しい国づくりに加わってくれたら、どれだけ心強かったことか。もしラビエヌスがカエサルと共にいたなら、3月15日もなかったかもしれない。

 

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