カルチェ・ラタン(Quartier Latin)とは「ラテン区」を意味します。
紀元前1世紀にローマ人は、シテ島を中心にローマ都市を築きました。特に左岸のこの地区には、公共浴場や半円形劇場、広場といった公共施設を集められ早くから近代化がなされてたのです。カルチェ・ラタン周辺はパリの中でも最もローマ文化が華やいだ地域です。そしてローマが衰退して以降もローマ(ラテン)文化が色濃く残り、中世にここで公用語としてラテン語が使われていたことから、この周辺をカルチェ・ラタン=ラテン区と呼ぶようになったといいます。
現在はソルボンヌ大学はじめ多くの学校があり、書店、文具店があり学生の街、若者の街として活気のある地域であると同時に、ローマの遺跡や重要な建物、美しい公園がある落ち着いた場所でもあります。
■パンテオン(Pantheon)
この建物は建設開始から現在に至るまで6度もその用途を変えることになる、というとても数奇な運命を辿った。
パンテオンはもともと「聖ジュヌヴィエーヴ聖堂」となるはずのものでした。
聖ジュヌヴィエーヴとはパリの守護聖人。
5世紀に実在した女性で、元々はごく普通の農民の娘として生まれたこの人は、何度もパリ市民とパリの街を救います。5世紀にフン族がパリに攻め込んできた時、パリを捨てて逃げようとした市民たちを、ジュヌヴィエーヴが踏みとどまろうと説得して勝利し、その後フランク族の兵糧攻めの危機の際も、密かに食糧を調達に成功して市民を救い戦いを勝利に導いた。
何度も絶望的だったパリ市民と街を救った事によってジュヌヴィエーヴはパリの守護者と崇められ、聖人となったのでした。さらにジュヌイエーブの死後も戦いや疫病にパリが苦しめられると、ジュヌイエーブの亡骸を先頭にパリ市民が街を練り歩くと、パリが救われるという奇跡を何度も起こしたそうです。
そんな聖ジュヌヴィエーヴの聖堂がなぜ建てられようとしたかというと、ルイ15世が奇跡的な病気回復をはたしたことを記念して、パリで何度も「奇跡」を起こして救ってきた聖人ジュヌヴィエーヴを祀る聖堂を作ることになったというわけです。
実際には1757年起工、聖ジュヌヴィエーヴ聖堂として建設をしている間に、フランス社会は大きくうねり、完成したのがフランス革命が起きた1789年。フランスの混乱と世情に従い、フランス王家との関係性や宗教色は消え、革命の英雄を祭る神殿、すべての神々を祭る神殿=パンテオンとして誕生することとなったのでした。
それまで主流だった豪華絢爛なバロック様式から、無駄のない古代ギリシア・ローマ美術への回帰、この建物はそんな潮流の中誕生しました。古代ギリシアのコリント様式の神殿を忠実に再現しながらバランスよくドームを配置したフォルムによって、初期ネオクラッシック様式の傑作とされています。
完成してから、1世紀の間に6回も用途が変わったりもしたけれど、最終的には「フランスのために尽くした功労者たちの霊廟」となって現在に至ります。
現在ここには思想家ルソー、文豪ユゴー、キュリー夫人、数学者ラグランジュなど、革命家、政治家、哲学者、科学者等々、大きな功績を残した64人の墓があるのです。
場所:Place du Panthéon, 75005 Paris, フランス
■リュクサンブール宮殿と公園
リュクサンブール宮殿は1625年に王家の離宮として完成しました。
アンリ4世の王妃としてフィレンツェのメディチ家から嫁いできたマリー・ド・メディシスがルーブル宮を嫌い、生まれ故郷のトスカーナの様式の宮殿(フィレンツェのピッティ宮殿を模したと言われている)を作らせたものがこのリュクサンブール宮殿です。
メディチ家からフランス王家に嫁いで、幼くして即位した息子であるルイ13世の摂政として、マリーは絶大な権力を奮っていましたが、最後はその息子にパリを追われることになります。
マリーはこのリュクサンブール宮殿に飾るための壮大な24もの連作「マリー・ド・メディシスの生涯」をバロック絵画の巨匠ルーベンスに描かせました。現在ルーブル美術館の巨大なルーベンスの間に展示されています。
現在リュクサンブール宮殿はフランス国会の上院として機能しています。
現在公園として開放している宮殿の庭園には数多くの彫像を取り囲むように色鮮やかな花が咲き乱れる。小道には無造作に椅子がおかれ、人々は思い思いにその椅子に座り過ごしています。読書する人、新聞読む人、何もせずボーっとしている人、歩きつかれた旅行者などなど。ここはパリの中でも「静か」にゆったりとした時間を過ごせる場所なのです。
レ・ミゼラブル(Les Misérables/ヴィクトル・ユゴー)でマリウスとコゼットが出会った(と設定された)場所でもあります。
リュクサンブール公園の一角にはニューヨークの「自由の女神」のオリジナルの像があります。小さいので気づかずに通り過ぎてしまいそうだけど、これがアメリカの独立を記念して贈られた自由の女神像の原本です。
パリで最も早くからローマ化、近代化が進んだ場所は古代ローマの遺跡を残し、ローマの公用語だったラテン語を名前に残す、学生の街、文化の地区となっていました。
また、ここにはクリュニー美術館という特色ある美術館があるのです。