フィレンツェの歴史はほぼメディチ家の歴史。三百年にわたるメディチ家の栄枯盛衰を、傑出した人物と一緒に簡単に。
メディチ家は古くからの名門一族ではありませんでした。
13世紀に毛織物業が発展して貿易が盛んになったころ、金融業が急激に発展しました。それまで炭焼きや医者を生業としていたというくらいの記録しかなかったメディチ家でしたが、1397年にジョヴァンニ・ディ・ビッチ(Giovanni di Bicci de' Medici)がローマ教皇庁との関係を深め、メディチ銀行を設立、銀行業に乗りだして大きな成功を納めることでメディチ家が歴史舞台に踊り出ました。
■コジモ(イル・ヴェッキオ Cosimo de' Medici, il Veccio 1389-1464)
2代目コジモ・イル・ヴェッキオは父が始めた銀行を国内外に支店を増やして拡大、一族の富を大きく増やしていきます。
Jacopo Pontormoによるコジモ
このコジモは古代ギリシアの造詣が深く、プラトンア・カデミーを設立して芸術家や哲学者を集めたり、ギリシアの古典を集めてサン・マルコ修道院に図書館を設立したり、芸術家の支援や公共建築の寄附など、莫大な資金をフィレンツェの街に提供。インフラだけでなく芸術・文化のために尽くしたコジモは「祖国の父」と呼ばれます。
■ロレンツォ(イル・マニーフィコ Lorenzo de' Medici, il Magnifico 1449-1492)
この人の時代にフィレンツェとメディチ家はこれ以上ないほど発展します。
コジモの孫として、メディチ家の長男として生まれ、で幼い頃から何の不自由もない生活を送りながらラテン語、古典文学、哲学、美術、音楽などを学び、会話も巧みに話を盛り上げ誰でも楽しませる話術を身につけたロレンツォは、色黒でひしゃげた鼻をもち、しゃくれた顎という決して美しい風貌ではなかってにしても、とても魅力的な人物として世間に知られていました。さらには建築、楽器の芸術的センスも持ち合わせ、あらゆる遊びをこなす、人生を楽しむ天才といえます。
Vasariによるロレンツォ(部分)
ロレンツォは1469年にメディチ家の当主となりフィレンツェの君主となった。マキアヴェッリは言いました「ロレンツォはあらゆる君主の中で芸術の最大のパトロンである」。ボッティチェリ、ヴェロッキオ、ギルランダイオ、レオナルド、ミケランジェロ。。。ロレンツォは君主として周辺諸国との関係を保つために、フィレンツェ最高の芸術家たちを各国に派遣しました。このことによってフィレンツェで始まったルネサンスがイタリア各地に広がっていくのです。ロレンツォとフィレンツェは絶頂期を迎えるのでした。
ライヴァルパッツィ家の陰謀により暗殺されかけ、その後ローマ教皇が仕掛けた戦争で窮地に
立たされたり波乱の人生を過ごし1492年に持病により他界します。
フィレンツェ追放その1(1494)
ロレンツォの力で保たれていたフィレンツェの威厳と自信は一気に崩れ、内部では修道士サヴォナローラが、外からはフランス軍がフィレンツェを覆い、メディチ家はフィレンツェから追放されてしまいます。
スペイン軍の力を借りながら、クーデターによって当時の政権を排除して、メディチ家フィレンツェに復帰します。
■ジョヴァンニ/教皇レオ10世 (Giovanni de' Medici, Leo X1475-1521)
ロレンツォ・イル・マニーフィコの子として生まれたジョヴァンニは1513年にローマ教皇に選出されました。史上最年少37歳のことでした。父譲りの豪胆な性格はラファエロなど芸術家を庇護して後期ルネサンスを支えましたが、贅沢な生活を謳歌して教皇庁の財政を窮地に追い込み、聖職売買や免罪符の発行を行なってしまった。これは後の宗教改革に繋がっていくのでした。
■ジュリオ / 第219代ローマ教皇クレメンス7世(Giulio de' Medici,Clemens VII 1478-1535)
ロレンツォの甥にあたる。1523年にローマ教皇に即位。ラファエロやミケランジェロを引き立て、マキアヴェッリに「フィレンツェ史」を執筆させるといった文化面での功績はおおきいのだけど、フランスとオーストリアによるイタリア戦争、神聖ローマ帝国・スペインやオスマン帝国の圧力、宗教改革といった様々な、またジュリオにとっては不運な外的要因の連続に翻弄されることになるのでした。
クレメンス7世は1527年の"Sacco di Roma(ローマ掠奪)"を招き、その煽りでフィレンツェも危機にさらされ、
クレメンス7世が神聖ローマ帝国カール5世と和解、支援を受け
1530年フィレンツェ包囲戦に勝利して、フィレンツェ復帰。ただし、神聖ローマ帝国およびスペインの支配の元に。
■カトリーヌ(Caterina di Lorenzo de' Medici 1519-1589)
ロレンツォ・イル・マニーフィコの孫。メディチ家がフィレンツェに復帰した後、1533年に後のフランス王アンリ2世と結婚。三人のフランス王の母、フランス王妃カトリーナ・ド・メディシスとなる。1559年に夫アンリ2世が事故死、後継者である幼い息子の摂政としてフランスを実質統治を行うことになります。
■コジモ1世( Cosimo I de' Medici, 1519-1574)
1536年17歳の若さで当主となり絶対君主制を敷く。領土拡大と軍備増強を進めて周辺諸国から恐れられる。ローマ教皇に働きかけ「大公」の称号を手に入れる。妻のためにピッティ宮殿を買取り、息子の結婚式のためにフィレンツェを大改造する。ヴァザーリを宮廷画家として迎え、ヴァザーリの回廊を作らせたのもこの人。芸術への貢献度が高く、今に残る「花の都フィレンツェ」はこの人によるところが大きい。
*シニョーリア広場のコジモ1世の騎馬像
■マリア(Maria de' Medici 1575-1642)
コジモ1世の孫にあたる。1600年フランス国王アンリ4世と結婚。フランス王妃マリー・ド・メディシスとなる。息子ルイ13世の摂政として1610年〜フランスの統治を取り仕切るようになる。いろいろな出来事に翻弄されながら1621年までフランス王家の政治中枢にいながら、半ば追放される形でブリュッセルに亡命、ドイツのケルンで生涯を終えます。
1621年、パリのリュクサンブール宮殿を改築するときに自身の生涯を連作を、マリア自身がルーベンスに製作を依頼しました。現在ルーブルに。
Rubensによるマリー・ド・メディシスの生涯
■最後のメディチ アンナ・マリア・ルイーザ(1667-1743)
メディチ家最後の一人としてメディチ家の霊廟サン・ロレンツォ聖堂建設。75歳でピッティ宮殿で息を引き取った。この人の遺言により、フィレンツェから国外へ持ち出さないことを条件に、メディチ家の膨大な美術品と建築はフィレンツェの街に寄贈されました。
中世からルネサンス期にイタリアの各都市は都市国家としてしのぎを削ります。それぞれ特徴のある都市の運営は王家だったり、貴族だったり、市民だったり色々ですが、有力な一族が一定期間を統治したのはスフォルツァ家のミラノとここメディチ家のフィレンツェ。ともに一族が芸術を庇護して街の、国の芸術の発展に途轍もない貢献をすることになるのでした。