cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

オルヴィエト

ローマからフィレンツェへ向かう途中、ウンブリアからトスカーナにかけての起伏に富んだ丘陵地隊には小高い丘に築かれた街がいくつも現れます。そしてここオルヴィエト(Orvieto)は、日本ではあまり知られていませんがヨーロッパでは「世界で一番美しい丘上都市」として知られているのです。

僕は当時なぜオルヴィエトに行こうと思ったか覚えてないのだけど、「行ってきて良かった」オルヴィエトそういう場所でした。

ローマからの列車を降りて、オルヴィエトの駅を出るとすぐロープウェイが待っています。その行き先は丘の上の街。 ほんの3分程度 ロープウェイに乗り、丘の上に着く。緑多い道を抜けて街に入ると、程なく中世の空気が訪問者を包むことになるのです。

オルヴィエトの起源はローマよりも古く、エトルリア人がこの丘の上に都市を築きました。トスカーナを中心にしてこの辺りの街のほとんどは技術の民エトルリア人の集落が起源となっています。そして例外なくローマに併合されていくのです。ここオルヴィエトもそんなわけで紀元前3世紀にローマの支配下となりローマ都市として栄えることになります。オルヴィエトという街の名前はローマ都市だった当時の呼び名、ラテン語で「urbs vetus 「古い街」」が変形したものだとか。

ローマ衰退後いろいろな民族に支配されたあと、10世紀にはコムーネ(自治都市)となり、ローマ教皇に忠誠を誓う領事が統治するようになってから、オルヴィエトはローマ教皇庁と深いつながりを持つようになります。

16世紀にはメディチ家の力衰え周辺各国のイタリア侵攻がはじまります。神聖ローマ帝国が1527年にローマ略奪。メディチ家出身の当時のローマ教皇クレメンス7世はここオルヴィエトに逃れてきました。なので、オルヴィエトは「教皇の隠れ家」として重要な役割を果たします。ロープウェイ駅のそば、街の東の外れにある巨大な井戸「サン・パトリツィオの井戸(il pozzo di San Patrizio)」は当時クレメンス7世が丘の上の街での水の確保のために作らせたもので、同時に二重螺旋階段で井戸の底まで降りることができるクレメンス7世の緊急避難場所でもありました。

丘の上は街の最盛期、中世の頃から時間が止まってしまったように、古いたたずまいがそのまま残っているのです。

古い街並みに囲まれ、雨にぬれた石畳を進みます。素朴な建物に素朴な店が並ぶ古い街並みを歩いていくと、やがて建物の隙間から豪華なドゥオモが顔を出した。

手前の質素なワイン屋と対照的なドゥオモのファサード。その建物の大きさとともに、きらびやかに埋め尽くすモザイクがドゥオモの存在を特別なのものにしています。ちなみにオルヴィエトは白ワインの産地としても有名です。

オルヴィエトのドゥオモは1290年から約300年かけて造られた街のシンボル。そのファサードはイタリア・ゴシックの傑作といわれます(詳細は次回)。

ファサードを埋め尽くす色鮮やかなモザイクが、この日時折差し込む太陽の光に輝く様はとてもきれいなものでした。

 

街のはての城壁に立つ。

城壁があると僕は登って端っこに立ちたくなります。城壁のこちら側とあちら側、城壁の上に立ちそれを眺めるとその街の成り立ちがよくわかる気がするのです。

オルヴィエトは天然の城壁ここが絶壁の丘の上にある街であることをあらためて認識します。

周りは緩やかな起伏を繰り返し地平線まで続いている。ワインの産地だけあってそこら中にブドウ畑が見える。

街の端に立つとよくぞこんなところに街を作ったものだと、ただただ感心するばかり。

オルヴィエトのある丘は火山性の凝灰岩の台地だそうで、垂直に切り立つ岸壁は天然の城壁の役割にもなったでしょう。

 

実際に行ってみたオルヴィエトの街は僕の期待以上の場所でした。見事なドゥオモ、古い街並み、時折出会うとても絵になる路地、そして丘の上から見渡す大地。人が少なかったこともすごくよかった。。。

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