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ちょっとローマ史1 王政期

Regnum Romanum「王政ローマ」と聞いて、僕は初めてそれを知った時とても「意外」な印象を持ちました。「ローマ」と聞いて一番連想するのが、多分「ローマ帝国」次に「共和制ローマ」。でも建国から約200年、ローマには王様がいたのです。そしてその王政も実にローマらしい、ちょっと変な王政でした。。。

 

テヴェレ川に流され、狼に救われ、狼の乳を飲み育った伝説の兄弟ロムルスとレムス。ギリシア軍の「木馬」によって滅ぼされたこちらも伝説のトロヤ人の英雄アエネイアスの血を引くこの兄弟によって「ローマ」が誕生した(と言われている)。兄弟間の争いの結果ロムルスがレムスを殺し、単独の王となりパラティノの丘に街をつくった。

B.C.753年、ここに「王国ローマ」は誕生した。

と言うのが伝説としてまことしやかに語られるローマ建国の物語。ここからローマの歴史は始まります。

 

初代王 ロムルス(ラテン人 B.C.752-717)

建国してすぐ18歳の王ロムルスは、国政を王と元老院、市民集会の3つに分けました。元老院は100人の長老による助言機関、市民集会は王はじめ政府役職者の選出、王の政策の承認機関でした。王が執政官、皇帝と変化する以外、この時すでにローマの国家としての基本形が定まっていたというわけで、ロムルスの強烈な政治的センスを感じます。

一方、建国当時のローマはどちらかと言うと「ならず者」の集まりで、当初女性が少なかった。ロムルスはお隣サビニ族の娘をローマ男と結婚させてくれと申し入れるがあっさり断られる。するとその後サビニ人を罠に嵌め未婚の娘たちを誘拐して自分達の妻にすると言う蛮行を犯しました。後世芸術家たちの題材として多数取り上げられる「サビニの女たちの略奪」です。

サビニの女たちの略奪(ピエトロ・ダ・コルトーナ/Pietro da Cortona 1596-1669 カピトリーノ美術館)

ただ、理不尽な始まりではあったものの、ロムルスサビニの娘たちにローマでの自由と幸せな生活を約束したといい、ローマの男たちは妻をとても大切にしたであろうことが窺われます。後にサビニ人が略奪された娘の奪還を試みてローマに攻め入る。その時、そのサビニの妻たちがローマ人の夫と故郷の家族との争いをやめさせるために剣と槍、矢が飛び交う戦場に命をかけて割って入ったといいます。ローマ優勢で進んでいたこの戦争でしたが、ロムルスサビニの王もこの命懸けの訴えを聞き入れ和解します。

サビニの女たちの仲裁(J・ダヴィッド/Jacques-Louis David 1748-1725 ルーブル蔵)

かくしてサビニ族はローマに移り住みローマ市民権を得る。昨日までの敵は一つの国の民となりローマは拡大します。ローマ人の特徴のひとつ「寛容」はこの時すでに現れていました。そして共和制から帝政ローマの軍団の屋台骨となる百人隊(Centuria)もロムルスの発明とされ、伝説の王ロムルスはその後1000年続く国家ローマの骨格を作っていたことになるのです。

715年ロムルスは謎の死を遂げます。権力が巨大になりつつあったロムルスを恐れた元老院が暗殺したとも言われている。

 

第2代王 ヌマ・ポンピリウス(サビニ人 B.C.717-673)

ロムルスが死んだ後、後継者がなかなか決まらなかった。そんな中、元老院と市民集会が全会一致で王に推薦したのが、当時サビニの地に住み、知と徳の人としての評判轟くヌマでした。平和を愛したヌマは43年治世で一度も戦争をせず、戦争をせずに暮らしていける国を目指して農業と牧畜を振興と秩序の構築に尽力しました。月の満ち欠けから1年を12ヶ月355日と暦を定め、休日祭日も定めました。農耕牧畜はこの暦に沿って行われるようになります。またヌマはローマの神々を整理し多神教ローマの礎を築いたのでした。すでに大勢いたローマの神々を整理して「守り神」として位置付けた。人々はそれぞれの神を敬い、努力する者を助けてくれる守護神として神々を認識するようになります。この神様の考え方こそが、ローマを超大国へと発展させたもうひとつの特徴、多神教、それは他者を認め受け入れることのできる宗教でした。賢人ヌマの治世でローマ人は文明人としての礎を確立することになります。

ヌマはその治世と同じく穏やかに亡くなったと言われています。

 

第3代王 トゥリウス・オスティリウス(ラテン人 B.C.673-641)

ヌマの治世で蓄えた力で隣国であるラテン国家の名門、トロイアを起源とするラテン人の祖アルバロンガに戦いを挑みます。このときのエピソードは「ホラティウス兄弟の誓い」がダヴィッドによって描かれています。

ホラティウス兄弟の誓い(J・ダヴィッド/Jacques-Louis David 1748-1725 ルーブル蔵)

アルバロンガとの戦いは双方勇者3名を出し、その代表同士の決闘によって勝敗を決める、とされた。ローマ側の騎士として戦ったのがホラティウス3兄弟。この絵はその戦いに出向く直前の誓いの場面が描かれている。国家のために命を賭けることに疑いを持たない男たちと、その運命を憂いて項垂れる女たち。決闘はホラティウス兄弟の二人が先に殺されてしまい、最後ひとり残ったホラティウスが絶体絶命の窮地から大逆転で勝利する。ローマの勝利となったのですが、アルバロンガの王は、この決闘の結果を受け入れず約束を破る。その後ローマはアルバロンガに攻め込み、約束を破った王を処刑して街を破壊する。しかしアルバの民はローマ市民として受け入れ、ローマの7つの丘のうちチェリオの丘がアルバの人たちの居住区とされ自由を保証され、貴族には元老院議席も与えられました。この時カエサルの家系ユリウス一門はじめ名門貴族がローマに加わったと言われています。

この王は雷に打たれて死んだとされています。

このアルバロンガ市民のローマ市民化、とくに名門貴族のローマ化は、それまで「ならず者」の集まりだったローマを正当な由緒ある民族としての裏付けを確かなものとしたのでした。

 

第4代王 アンコス・マルキウス(サビニ人 B.C.641-616)

ヌマの孫にあたるサビニ人の王。祖父と異なり争いを好んだ王でした。当時ローマは勢力が大きくなり周辺部族からも警戒されるようになることで、争いに発展することが多かったといいます。戦いの一方でテヴェレ川に初めて橋をかけたり、ローマに初めて水道を敷いたりという功績も残します。そして、オスティアを征服することで塩(塩田)を手に入れ、ローマは地中海とつながったのでした。

 

第5代王タルクィニウス・プリスクス(エトルリア人 B.C.616-579)

初のエトルリア出身の王。しかしローマがエトルリアに征服されたわけではなく、自らエトルリアからローマに移り、ローマ市民権を得た。マルキウスが亡くなった後にローマで自ら立候補してローマ中で演説をして、選挙の結果王になった。

平時には兵士をつかって公共事業を行うことを通例とした人物。灌漑工事を行うことで7つの丘周辺の湿地を乾燥した低地に変え、ローマを立派な都市へと変えていきました。その際、故郷のエトルリアから技術者を招聘してローマにエトルリアの技術を伝えながら、パラティノの丘の向こう戦車競技場(チルコ・マッシモ)、カピトリウムの丘の上のユピテル神殿などを建設していきました。タルクィニウスは王位を狙う先王アンコスの息子二人に暗殺されました。

しかし、アンコスの息子たちが王位につくことはありませんでした。

 

第6代王 セルウィウス・トゥリウス(エトルリア人 B.C.579-535)

出自は謎で孤児とも奴隷の子とも言われていますが、第5代王タルクィニウスに可愛がられ養子として迎えられ、実の子供たちと同じく育てられ、ついには王位についたという異色の人。先王の善政と事業を引き継ぎ、最初にローマの7つの丘を囲む、今もテルミニ駅周辺で見られるローマを守る壁「セルウィリウスの城壁」を完成させた。また軍制を改革します。これにより国を守ることと税制の改革も実現していきます。44年という治世にさまざまな改革をもたらした善王として過ごしたセルヴィウスでしたが、第5代王の孫に暗殺されてしまいます。

 

第7代王 タルクィニウス・スペルヴス(エトルリア人 B.C.535-509)

傲慢王。セルヴィウスの葬儀を禁止し、先王派の議員を全て殺し、元老院も市民集会も無視して王位につき、独裁体制を敷く。ローマ領土を拡大した反面、エトルリアと同盟を結んだためにローマがエトルリアの属国状態となってしまった。かねてからの独裁状態に加えエトルリアの属国状態になってしまったことに我慢できなくなった市民がついに蜂起する。タルクィニウスのスキャンダルを突いてルキウス・ユニウス・ブルートゥスが中心になり、王を追放。王はエトルリアに逃げていった。

 

これによって、244年続いたローマの王政が終わりを告げました。

 

「王政」という言葉だけで、ローマの王政期を判断するべきではありません。

王政のローマは7人の王が誕生しました。その王たちは世襲制ではなく、元老院と市民集会によって選ばれた。そして選ばれた王は数十年の治世でそれぞれその能力を発揮して国家の拡大と市民生活の安定を実現し、さらに国家としての揺るぎない性格形成も進めて行った。1000年以上続くローマという国の特徴がすでに王政期に形成されてたことには驚かされます。まさに三つ子の魂百までという言葉が、国にも当てはまる。

しかし7代目にして暴虐無人な独裁的な専制君主が産まれてしまったことでローマは自ら王政を捨てるのです。この7代目の暴君は国家の拡大と王という地位のアンバランスによって、この政体の綻びとなって産まれたものかもしれません。いずれにせよ、この苦い経験がローマ人を共和制へと駆り立て、以降長いこと続く専制君主への拒絶を決定的にしたのでした。

 

「王政ローマ」いわゆる王政とは一味異なる世界はとても興味の持てる時代です。

 

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