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ちょっとローマ史3 リキニウス法〜共和政期

紀元前509年にエトルリア出身の王タルクィニウスを追放し共和政への舵を切ったローマでしたが、周辺諸民族との戦いや内紛など、なかなかすんなり安定運行とはなりません。アテネに調査団を送って、「十二表法」を作るも逆効果、貴族と平民の溝は深まるばかり。

紀元前390年、ガリア人による首都ローマの破壊・占拠という一大事が起こります。イタリアのずっと北部、現在のフランスを中心に居住していた民族ガリア人(ケルト人)が退去してローマに攻めてきた。当時ガリア人は「森林の民」と呼ばれ勇猛果敢で知られていましたローマはそれを食い止めることができず、ローマの街は破壊され、ローマの大半が占拠、ローマ人はカピトリウムの丘に籠城するという事態が起きてしまった。

このローマにとっての悲劇の伏線は、大国である宿敵エトルリアとの戦いに勝利し、遂にローマに組み込んだことにありました。せっかく念願かなってエトルリアに勝ったのに、このことが皮肉にもガリア人によるローマ占拠という事態を招いてしまった。

理由の一つは、大国エトルリアイタリア半島付け根にあって防衛力をもっていたから、ガリア人はイタリア侵入ができなかった。そのエトルリアが弱体化したので、気軽にイタリアへ行くことができるようになった。もう一つは、手に入れたエトルリアの土地を巡ってのローマの内部の対立により、攻めてきたガリア人を抑える力が当時のローマにはなかった。

ローマ人はガリア人を抑えることができず、最後は狭いカピトリーノの丘の限られた土地での7ヶ月におよぶ籠城を経て、ローマが300kgの金塊をガリア人に渡すと、彼らはあっさり去っていった。当時蛮族と呼ばれたガリア人はローマの街を破壊して手当たり次第のローマ人を殺戮して去っていった、7ヶ月の籠城の間、そこにいたローマ人はその様をただ眺めることしかできなかったといいます。ローマにとっては屈辱しかない出来事でした。

ロムルスによる建国から360年余り少しずつ発展を遂げたローマの街はゼロにリセットされます。しかしここで生き残ったローマ人たちはローマの再建に励み20年かけて街はほぼ元通りとなりました。ガリア人にあっさり突破された防衛網を強化して、周辺諸国とも戦いに勝つと言う形で再度同盟を結び関係を強化します。

そしてローマは内政面で画期的な改革を行います。

リキニウス法(リキニウス・セクスティウス法 / leges Liciniae Sextiae)の成立。紀元前367年、平民出身の護民官リキニウス(とセクスティウス)が提案し、元老院議員たちが賛成した法律で、共和国政府全ての官職を貴族・平民関係なく解放するものでした。生まれや身分に関係なく、元老院議員にもなれる、執政官にだってなれるという、画期的なものでした。

ローマ人は「ガリア人によるローマの破壊」という大敗北の原因が1世紀に及んだ貴族と平民の対立にあると分析しました。リキニウス法の成立という大英断は、完膚無きまでの敗北から学んだ、2度と同じようなことが起こらないようにするための決意でした。

その決意を表した神殿がこの時建てられました。

コンコルディア神殿。リキニウス法の成立を記念して、長年対立してきた貴族と平民が協力、調和、一致してローマを作っていくのだということを誓います。この「調和・和合」を司る女神コンコルディア(Concordia)に捧げる神殿です。

ガリア人との完全な敗北によって、ローマは大きく生まれ変ります。これから前例を見ない大国への第一歩を踏み出すことになるのでした。

 

場所はフォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスの凱旋門のすぐ後ろ側にありましたが、残念なことに今は何も残っていません。

 

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