簡単に、ミラノの歴史です。
*ローマ以前
紀元前7世紀
ガリア人集落が誕生
*共和政ローマ期
紀元前222年
ガリア人集落をローマ人が植民地化。ローマ都市「メディオラヌム(Mediolanum)」誕生。ローマ人はすでにこの時、ミラノ(メディオラヌム)をガリアへの領地拡大の拠点として位置付けます。この時に、今に至るミラノの破壊と再生の運命が決まりました。
紀元前42年
ローマはミラノ(メディオラヌム)を自治都市に格上げ。植民都市からローマの街となる。
*帝政ローマ期
286年 ディオクレティアヌス帝によって、西ローマ帝国の首都となる
313年 コンスタンティヌス帝がミラノ勅令を発布(キリスト教がローマ帝国に公認される)
ミラノ司教聖アンブロシウスによりミラノは発展。アンブロシウスはテオドシウス帝に影響及ぼし、他宗教を排除してキリスト教がローマの国教になるように仕向けていく。
392年 キリスト教がローマ国教となる
450年 フン族によるミラノ略奪
476年 西ローマ帝国滅亡
*ローマ後
539年 ゴート族によるミラノ破壊。大司教による統治。
962年 神聖ローマ帝国による支配(フリードリッヒ1世による支配)
*都市共和国の時代
11世紀末 コムーネ(都市共和国)として独立
毛織物や武器製造で富を築き都市共和国として独立、神聖ローマ帝国と反目
1386年 ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティによりドゥオモ建設開始
*ミラノ公国(ミラノ最盛期)
1395年 ミラノ公国誕生(初代ミラノ公にジャン・ガレアッツォ即位)
1400年 フィレンツェ共和国国境侵害、ピサも
周辺の都市国家を巻き込んでのフィレンツェ共和国との対立の時代。
ヴィスコンティ家の支配権をめぐる内部闘争の時代
1447年 フランチェスコ・スフォルツァ(ヴィスコンティ家の婿)ミラノ公国統治
1455年 フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国と平和条約を締結
ルドヴィコ・イル・モーロによる科学・芸術の奨励により
1482年 レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノへ
1497年 「最後の晩餐」完成
*他国支配の時代
フランスによる支配
1499年 フランス王ルイ12世がルドヴィコ・イル・モーロを排除。
ミラノを実質支配(フランス軍にミラノ占領される)
1512年 フランスルイ12世ラヴェンナの戦いで敗れ、ミラノ主権回復
1515年 フランソワ1世ミラノ侵攻。ルネサンスに触れフランスを芸術大国にすると決意。
スペインによる支配
スペインのハプスブルク家出身カール5世が神聖ローマ皇帝となってフランスとイタリア戦争を戦う
1535年 スペイン王カルロス1世(カール5世)がミラノ公を継承。ミラノはスペイン領に。
1587年 ミラノでペスト流行によりコモに重要産業を疎開。絹織物産業おこる
1707年 スペイン継承戦争に勝利したオーストリア・ハプスブルク家がミラノを領地とする
1748年 アーヘン条約によりオーストリア帝国(ハプスブルク家)がミラノを支配
1778年 スカラ座初演
フランス・ナポレオンの支配
1796年 フランス・ナポレオンのイタリア遠征、ハプスブルク家支配を排除
1805年 ナポレオン・ボナパルトがイタリア王国建設を宣言し王位につく。
このとき、ドゥオモで戴冠式敢行
1809年 ブレラ美術館公開
再びオーストリア支配
1814年 ナポレオン退位でミラノ市民が反乱、そこにオーストリア軍が再参入。
1848年 イタリア統一運動の中心になり、オーストリア排除
*イタリア人による国家へ
1859年 サルテーニャ王国がオーストリアからミラノを奪い返す
1870年 イタリア統一
1906年 ドゥオモ完成
1933年 ミラノ・トリエンナーレ開催(さまざまな芸術の博覧会、現在も開催)
1940年 第2次世界大戦に参戦
1943年 連合軍によるミラノ空爆により街は壊滅
ドゥオモは連合軍が爆撃をさけ、被害を免れる
修道士たちの働きで「最後の晩餐」の壁だけ奇跡的に残る
*左のちょっと屋根がかけられている壁が最後の晩餐の壁。まさに奇跡。
壊滅的ダメージを受けたミラノは戦後、復興を遂げる。
1975年 第1回ミラノコレクション開催
破壊と再生と繰り返したミラノは、ローマの駐屯地からローマの首都、キリスト教の街、芸術とファッション、ビジネスの街へと変貌を遂げて現在に至ります。
cmn.hatenablog.com
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