cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

ピサ小史

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ピサの歴史を簡単に辿ってみます。

 

 

■なぞのはじまり

ピサの街の起源はルッカと同じくエトルリア人と言われていますが、ほかにも諸説あり学術的に立証されていません。古代ローマの時代からすでに「古くから発展した街」として記述され存在していたといい、ここでは「紀元前13世紀ピセイ王(ピサの名前の起源?)が街をつくった」とされているらしい。他にもローマの起源と同じく「伝説のトロイ人の末裔」によるとか、いまだに諸説飛び交っているようです。そんな中、エトルリア人が中心となってつくった街であるということは、どうやら正しいようですが、結局のところはいつ誰がどうやってこの場所に街を作ったのか、はっきりしていません。

■ローマ人によって

この街を飛躍的に発展させたのはローマ人。紀元前180年には植民地ポルトゥス・ピサヌス(Portus Pisanus)としてローマに組み入れられ、紀元前89年からローマの自治都市となります。古くから軍港として機能していた街はこのローマ期にはジェノヴァ(Genova)からオスティア(Ostia)といったローマの港を守る防衛の拠点だったり、スペインなど西へ行くための港町として大発展を遂げました。紀元前56年にルッカ会談を終えたポンペイウスが出港したのもここピサの港です。

カトリック司教座

313年ミラノ勅令が発行されてキリスト教ローマ帝国に公認されて以降は、司教座が置かれるカトリックの重要都市にもなります。

■海軍力

さらにローマ帝国の衰退がはっきりして以降もピサは強力な海軍力を背景に、その存在感を示し続けます。

特に中世前半9世紀にはルッカ公国の一部になりますが、首都はルッカであってもピサは重要都市であり続けます。それは地中海にサラセン人の海賊が横行し、地中海の安全な航海のために、周辺諸国にとっては、よりピサ海軍の力が重要になったためでした。

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11世紀、ピサはヴェネツィア(Venezia)、ジェノヴァ(Genova)、アマルフィ(Amalfy)とともに大海運国家としてその名を世にとどろかせ、絶頂期を迎えます。

サラセン人と戦い、ライバルと競い蹴落としピサは南下してサルディーニャシチリア北アフリカカルタゴを征服し、第一回十字軍に大量の艦隊で参加。多くの土地で略奪し、ついに1099年には聖地エルサレムを占領。そして東ローマ帝国コンスタンティノープルにはピサ人居住区をもち、貿易特権を得るまでになりました。

そしてその繁栄によって、あの奇跡の広場が生まれるのです。

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■衰退

13世紀末、ジェノヴァとの戦いに敗れたころから、ピサの衰退が始まる。15世紀、アルノ川をさかのぼった先にあるフィレンツェ共和国支配下となると、アルノ川の流れの変化によって港が堆積し、ピサの衰退が決定的になりました。14世紀、衰退する海軍国家ピサの代わりに、学芸都市ピサとして生まれ変わります。ピサ大学が創設され、ガリレオ・ガリレイが学生として通い、後に教師としてすごします。その後ピサは学芸都市としてゆっくりと静かに年を重ねることになるのでした。

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1865年にイタリアが統一されるまで、ピサはフィレンツェの陰として静かに過ごしました。

 

15世紀、イタリアでルネサンスの花が咲き乱れた頃、ピサはひっそりと静かに時間を過ごしたのです。歴史の表舞台から退いた、そのおかげでその後もピサ・ロマネスクの街は何かに崩されることなく、そしてあの奇跡の広場はいくつもの奇跡をもって、今に伝わることができたのです。

 

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