cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

ちょっとローマ史4 ポエニ戦役〜共和政期

カルタゴは現在のチュニジアに位置するフェニキア人の国。当時ローマ人が経済力ではかなわない、としていた経済大国です。紀元前3世紀、カルタゴギリシアの衰退によって地中海の通商を広く牛耳ることになり、特に西地中海はカルタゴの独壇場でした。

そしてカルタゴはイタリアの目と鼻の先、シチリア島の西半分を支配、さらにコルシカ、サルディーニャ島も領土としていたため、圧倒的な経済力と海軍力によってローマに不平等条約を結んでいました。当時のカルタゴ人は「ローマ人は地中海で手を洗うのもカルタゴの許可がいる」と豪語していたほど。

 

そんな中、紀元前254年シチリア島でポエニ戦役が始まります。まだローマ領でもなく、ローマと同盟関係にもなかったシチリア島の東半分にカルタゴが侵攻を始めました。ローマはこれに対しシチリア全土をカルタゴが支配することを防ぐために東シチリアへ援軍を送ったのでした。これがカルタゴ(フェニキア)を意味するラテン語「ポエニ」戦役の始まりです。

このときローマ人はまだ、この先130年にわたってカルタゴと全面戦争することになることなど想像もしていなかったようです。

 

第一次ポエニ戦役 (紀元前264-241年)

シチリアとその周辺で激突したローマとカルタゴの争いで、ローマとしては不平等条約結ばされた上、これ以上干渉してくれるな、近寄るな!という自衛行動の結果でした。

主な戦場は海となり、伝統的な海軍国カルタゴと、海は初めてのローマ軍が対戦という、誰がどう見てもローマ劣勢の構図でした。初めての海戦にあたりローマはギリシアの指導を受けながら見よう見まねで軍船を建造。その時に海の伝統がないローマならでは、海の常識を無視した新兵器「カラス(ラテン語 Corvus)」を導入、海戦の常識を覆した奇策によってローマがカルタゴ海軍に勝利します。カルタゴシチリアから撤退。このことはカルタゴが400年築き上げたシチリアでの利権と地中海の西半分を奪われることになり、第二回戦への布石となるのでした。

第二次ポエニ戦役 (紀元前219-202年)

第一次でローマに敗れたカルタゴは失った西地中海の代わりに、現在のスペインを侵略して領土を拡大します。それを指揮したのがカルタゴに現れた英雄ハンニバル。紀元前218年、象部隊を含む軍団を率いてスペインを攻略し、フランスを地中海沿いに東に進みます。そして、おそらく誰も考えもしなかった、象を率いた全軍で雪のちらつくアルプス越えを敢行します。そしてイタリア本土に侵攻、その後もイタリアの奥深くまで攻め込み首都ローマに肉迫しました。ローマはハンニバルに連戦連敗、特に紀元前216年ブーツ型のイタリア半島のアキレス腱のあたりにあるカンナエ(カンネ)の会戦で大敗を喫してイタリア南部のほとんどがハンニバル支配下になります。カンナエの会戦では数で優勢のローマ軍でしたがハンニバルの、現在でも陸軍士官学校の教材として扱われる戦略の前に完敗するのです。8万軍勢のうち6万人の兵士と百人近い元老院議員が戦死、1万人が捕虜となる歴史的な敗北でした。

そしてカルタゴというよりハンニバルにやられっぱなしのローマにも英雄が現れます。

プブリウス・コルネリウススキピオ(Publius Cornelius Scipio)は若干24歳でローマの軍団指揮権を元老院に求めます。ハンニバルに大敗続くローマの希望として、スキピオによるローマの逆襲が始まります。

ハンニバルの戦略を分析し尽くしたスキピオは、いわばハンニバルに学んだ弟子と言ってもよい。スキピオはいきなりの直接対決ではなく、まずスペインのカルタゴ軍を駆逐して、カルタゴ本国に侵攻します。これにより南イタリアにいたハンニバルは本土を守るために撤退せざるを得ず、イタリアから軍を率いて、カルタゴに引き返す。ここでスキピオハンニバルをイタリアから出すことに成功します。ローマが大敗喫したカンナエの会戦から14年後、紀元前202年、カルタゴのザマの地でその後のヨーロッパ世界の運命を決める決戦が行われました。

ザマの会戦は数の上ではローマが劣勢、しかし45歳になった古代屈指の名将ハンニバルは33歳のスキピオによってカルタゴは完敗しました。スキピオハンニバルに勝つために、ハンニバルを分析し尽くしハンニバルを超えました。

このザマの会戦を以って、カルタゴはローマと講和条約を交わし第二次ポエニ戦役は終了。不平等条約ではあったけど、ローマは敗者カルタゴに対して同盟者として認めて自治権を与えます。

凱旋帰国後、スキピオはアフリカを制した者としてスキピオ・アフリカヌスの称号が与えられました。

第二次ポエニ戦役後にカルタゴとローマ双方に登場した2人の英雄は同じような運命をたどります。それはまた小話として後程紹介します。

第三次ポエニ戦役 (紀元前149-146年)

第一次の始まりと全く逆の事が起こります。自治権は得たとしても、ローマとの不平等条約に我慢できず、またハンニバル亡き後の自分達を過信したのか、カルタゴはローマに戦争を仕掛けます。これが第三次ポエニ戦役。

一度許した相手が再び、剣を向けてきたことにローマは容赦しなかった。スキピオ・アフリカヌス養孫にあたる、スキピオエミリアヌス(Publius Cornelius Scipio Africanus Aemilianus)が率いたローマ軍にとってはハンニバルのいないカルタゴ軍は敵ではなく、簡単に勝負は決っします。

ローマはこの裏切り行為に対しては全く寛容は示されることなく、多くのカルタゴ市民を殺すか奴隷にされ、首都は焼き尽くされ二度と復活できないように、その土地に塩が撒かれました(諸説あり)。こうしてローマとカルタゴの130年にわたる戦争はカルタゴの滅亡によって終わりました。

ポエニ戦役がもたらしたもの

ローマが自衛のために始めたポエニ戦役は結果的にハンニバルによるローマ滅亡の危機を招き、ローマ大逆転で乗り切って、終わってみれば当時一の大国カルタゴを滅ぼして、地中海を広く影響下に置くことになりました。このポエニ戦役によって国家ローマは大きく変貌したのでした。

戦いの最後、カルタゴの街を焼き尽くす様子を見ていた、スキピオエミリアヌスは勝利の高揚ではなく、悲哀の気持ちでいっぱいだったと言います。燃えて崩れていくカルタゴの街をみて涙した。これだけの大国カルタゴでも最後は滅びる。ローマもいつかこういう時が来るのだろうかと。

我らの海

第2次と第3次ポエニ戦役の間に、衰退したギリシアを平定したローマは、第3次ポエニ戦役を終えて地中海全域を支配下に入れます。

ほんの130年前「地中海で手を洗うにもカルタゴの許可がいる」と言われたローマ人は、この頃から地中海のことをこう呼ぶことになるのです。

「Mare Nostrum  (我らの海)」

 

参考文献

教養としての「ローマ史」の読み方

一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 

ほか

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com