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カエサル7 三頭政治

昔歴史の教科書に載っていた三頭政治(Triumviratus)という言葉。歴史を学校で学んだ(はずの)当時、全く意味を理解していなかった。歴史とは組紐が如く、もつれて繋がりをもって時が過ぎ、さまざまな小さな出来事が因果応報重なって大きな出来事へ流れていく。そんな醍醐味を学校で教えてくれたらいいのになと、今思います。

三頭政治とはなんだったか?を簡単に書くと、紀元前1世紀、元老院を中心とした寡頭政を敷いていたはずの共和政ローマで、実は特定の3人によって政治が動かされていた、というモノ。その3人とはポンペイウスクラッスス、そしてカエサル

ポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus, B.C.106-B.C.48)

軍事において、溢れるほどの実績と絶対的な力を持ち、逆にそのために元老院からは邪魔されてばかりで自由な活動ができない、そんな不満が満載。当時は自分が平定したオリエントの受益すら元老院に邪魔され、そうとうイライラしてたでしょう。

クラッスス(Marcus Licinius Crassus B.C.115-B.C.53)

ローマ屈指の大金持ちで借金王カエサルの債権者。だがその金がスッラの粛正で殺された貴族達の財産を格安でたたき買い集めた、実に薄汚いやり方で得た財産だったので、唸るほどの金があるが人望も実績もない。当時クラッススは何か功を挙げ名を残したいと考えていた。自分にはない人気をカエサルから借り、またカエサルへの膨大な債権を回収するためにも全力でカエサルを支援する立場にあった。

*このポンペイウスクラッススはローマでも有名な不仲二人でした。

カエサル(Gaius Iulius Caesar, B.C.100-B.C.44)

初めての執政官当選を狙うカエサルクラッススからの借金による数々のパフォーマンスによって民衆からの人気は絶大。しかし元老院からはマリウスの甥であること、カティリーナの陰謀で元老院を敵に回すなど、まだ本格的な危険視はされないまでも、マークはされていた。カエサルは執政官になることが目的ではなかったが、その先の壮大な構想のための入り口として執政官になることが必要だったのでした。

 

前者二人は力や金を持っているが結局は自分のために行動している。カエサルはそれが自分の野心や虚栄心が元にあったとしても、純粋に国家ローマを正常に、さらに良い国へという動機が根底にある。三頭政治は前二人の力と欲求を絡めて成立させた、カエサルが創造したものであることは間違いない。

 

なぜ三頭政治が必要だったのか?

まだローマがイタリア半島の中だけを統治していたのなら、従来通りの元老院中心の政治でも良かったかもしれない。でも紀元前1世紀当時のローマはすでに、地中海をすっぱり囲んでしまうほどの広大な領土を統治しなければならなかった。それに対して600人もの議員の意見をまとめなければさっぱり先に進めない元老院(寡頭政)体制はとっくに機能不全に陥っていたのでした。また一方で、既得権益が心地よかった元老院議員たちは自分達の既得権を脅かすような改革の芽は、今まで元老院最終勧告という形で徹底的に潰してきた。これによってローマの統治機能は非常に低いレベルまで落ちた状態でした。

ゆっくりと着実に進んでいた統治機能の衰退は、茹でガエルが如く国家ローマを滅ぼすことに直結するわけだけど、当時最高の識者と言われたキケロですらそれに気づけず元老院体制でローマは統治できるという幻想から抜けることができなかった。

ローマの統治を機能させ衰退を止めるために、たくさんの課題を少数の有力者がスピーディ、かつ客観的に判断して実行していく、それが三頭政治の本質でした。

 

三頭政治には記録がほとんどありません。

いつどのように始まったのか、どういう話し合いの結果、不仲のポンペイウスクラッススが手を組むことになったのか、何も記録が残っていない。なぜ記録が残っていないかといえば、過去何人も改革をしようと試みた者はいたけれど、その度に元老院議員が自分達の既得権を守るため「元老院最終勧告」を発令して、改革者は「国家を転覆させる反逆者」の濡れ衣を着せられ、潰されてきた。なので、三頭政治は少なくともカエサルが大きな力を蓄えるまでの間は、気づかれないように進める必要があったのです。秘密裏にそしてポンペイウスクラッススの不仲が隠れ蓑になって、この三頭政治は8年近くローマを動かしすことに成功しました。

その結果、記録があまり残ってない。今でこそ、三頭政治は、カエサルポンペイウスクラッススの三人が実質ローマの政治を支配したとわかっています。秘密裏に行われたため記録も少ないこの三頭政治は実に巧妙な統治方法であったし、当時の誰もこの3人が手を組むなど思ってもなかったおかげで三頭政治は静かに着実に進めることができたのでした。

B.C.60年にカエサルは執政官を務めた後、8年に及ぶガリア戦役を展開します。ローマから離れている間もカエサルは、三頭政治によってローマで起きていることを把握しコントロールしました。そしてカエサルは、クラッススが戦死する前、ポンペイウス元老院派に懐柔され三頭政治が崩壊する前にすでに、次のステップ=帝政へ進む準備をほぼ完成させていたのでした。

 

ルッカ会談(B.C. 56)が行われました。三頭政治がスタートして4年、カエサルガリア戦役を開始して3年になるこの年、当時の港町だったピサのすぐ近く、ルッカという街で三頭による今後のローマに関する会談が行われました。例によってどの場所で開かれたか、そこでどんなことが話されたのかの記録はなく、その会談の中身はその後の三頭の動きから推測するしかないようです。

僕はこのルッカ会談の痕跡を求めてルッカの街へいったのだけど、何もなかった。(下のリンクはその時の様子です)

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このルッカ会談を境に、三頭政治は徐々に公になっていきます。ローマが偉大な国家として生き延びるためには、ある一つの政体へ向かうしかない。これは三頭政治で証明され、おそらくカエサル三頭政治を通じて「帝政ローマ」の予備実験をしたのだろうと想像してしまいます。

 

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