僕はルッカ会談の痕跡を求めてこの街に来たわけだけど、結局カエサルもポンペイウスもクラッススも誰の痕跡も見つけられなかった。ルッカ会談のルッカは別のところにあるのではないかと疑いたくなるくらい、何もなかった。
その代わりに知らなかったことをいくつか知ることができた。
■技術力のエトルリア人
ルッカはエトルリア人の街。エトルリア人といえば系統不明と言われる(謎?の)技術の民。紀元前9世紀に鉄器を扱うようになり、その後さまざまな金属器を作る高度な加工技術を持つようになる。この頃からギリシアとの交易が始まり、すぐれた金属器をギリシアに輸出して、ギリシアからはオリーブや小麦などと一緒に絵付けの陶器や壺などの工芸品が輸入されました。エトルリア人はギリシアの優れた芸術を受け入れ吸収して、金属器の高い技術と同時にギリシアの芸術文化がよりエトルリア人を高めていった。そしてその後エトルリアはローマに吸収され、ローマはエトルリアの金属器の技術とギリシアの芸術を吸収して昇華させ、のちのローマ帝国へとどんどん大きくなってゆくのでした。エトルリア人がこの場所にいなかったら、ローマ帝国はなかったかもしれない。
■シルクのルッカ
ルッカの見事な街を見て不思議に思った、この小さな都市国家でしかなかったルッカが、どうやってここまで美しい街を作ったのか、と。
答えはルッカの3つの教会が教えてくれました。ルッカは11世紀前後には絹織物の貿易で大発展を遂げていた。当時ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルを凌ぐほどだったとか。その結果ルッカは経済的に大きく潤った。そして生まれたルッカ・ロマネスク様式という洗練された建築様式はほぼ同時期に古い3つの教会を変貌させました。こうして絹織物貿易で潤った経済によって今に残る古く美しい街となったのでした。この当時はフィレンツェよりピサよりシエナよりも、ルッカの方が大都市だったという。この小さな街にシルクによる多くの富が集まって、その結果、街は発展してそのシンボルたる教会、聖堂は壮麗に改築される。
ルッカもまた、ヴェネツィアやフィレンツェのように発展したのですね。
■市民のルッカ
ルッカの面白いところはもう一つ、「市民」が統治した街(都市国家)だったということです。現在のイタリア北部、トスカーナ、ロンバルディア、ヴェネト地方は小国が群雄割拠都市国家の多くは有力貴族階級による共和制、または一人の有力者が支配する公国制の形をとっていました。
ルッカは1120年に市民が統治する自治都市となりました。これは当時としてはとても珍しいケース。それから時々は専制君主が登場した時期もあったようですが、基本的には19世紀に公国となるまでの約800年もの間、ルッカの主役は市民だったようです。
ヴェネツィアやミラノ、フィレンツェといった大国はスター級の指導者、君主が現れ街(都市国家)として鋭く強い輝きを放ちながらも、その後入れ替わり立ち替わりの外国の支配をうける歴史を辿っています。一方ルッカは歴史に刻まれるような君主や指導者はいないけれど、絹織物貿易を武器に、地味に、でも永く市民たちが独立を守ってきたのです。
ルッカにルッカ会談の痕跡求めてきたけれど、ルッカ会談の「ル」の字も見つけることはできなかった。でも、その代わりエトルリア人の心意気と地味に、でも永く美しく生きながらえたルッカの街を知ることができました。