cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

フィレンツェ小話 ルネサンスの黄昏

f:id:fukarinka:20220205180253j:plain長い歴史の中では、ある時期ある場所に「天才」と呼ばれる人々が集中的に現れることがあります。紀元前5世紀のアテネ、15世紀のフィレンツェがそれにあたります。紀元前1世紀のローマもそうかもしれません。

アテネでは「天才政治家」ペリクレスの治世に未曾有の発展を遂げ、建築・彫刻といった芸術が美の極みに達しました。しかし、ペリクレスが死んで間も無く、アテネは衰退へ向かったのです。

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フィレンツェアテネと同じでした。コジモ、ピエロ、ロレンツォという政治の天才がフィレンツェの街を大きく育て、学問、芸術の天才たちが街を飾りルネサンスが花開いたのでした。しかし、ロレンツォが死んで以降のフィレンツェアテネと同じく衰退する。レオナルドはミラノへ、ミケランジェロラファエロはローマへ。奇跡的とも言えるほど、時間と空間を超えてフィレンツェに集まった優れた才能は、政治の衰退とともに徐々にフィレンツェを去り、ルネサンスもその中心をローマへ、そしてヴェネツィアへと変えていくのでした。こうしてフィレンツェルネサンスは徐々に小さく消えていきました。

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下はロレンツォ・イル・マニーフィコが作った「バッカスの歌」の一説。短くも激しく輝いた自国フィレンツェの、その後を歌っているようで言いようのない悲哀を感じます。

Quante bella giovinezza,

che sia fugge tuttavia,

Chi vuol essere lieto,

sia; di doman non ce certezza

 

青春とはなんと美しいものか

とはいえみるまに過ぎ去ってしまう

愉しみたいものは さあすぐに

確かな明日はないのだから

 

僕は「ルネサンス」とは「文芸復興」のことであると学校で習った。当時の理解は「古代ギリシア・ローマの文化を復活すること」だったけど、僕が実際にヨーロッパで目の当たりにしたことはちょっと違った。ルネサンスで実際に天才たちが為したのは「復興」ではなく、極みに達した古代芸術にインスピレーションを得た新たな「創造」でした。そして、フィレンツェで起きたルネサンスは天才たちだけでなく、普通の人々にもその精神が宿っていました。当時のフィレンツェ市民の芸術への関心は相当のものだったといいます。そして、各工房はそういった市民の関心を受け入れる。批判精神旺盛なフィレンツェ市民と工房の芸術家とのぶつかり合いはフィレンツェのあちこちで繰り広げられていたといいます。当時のフィレンツェの街のエネルギーは凄まじいものだったことでしょう。

つまりルネサンスの遺産の多くは天才たちがフィレンツェ市民とともに作り上げたもの。そうして完成した作品は「誰の目にも美しく見える」ものになった。ルネサンスの天才たちが作り上げたのは誰が見ても、素直に美しいと思える、人々の感性に直接訴えるものとなったのではないか。だからこそ500年間、500年を経た今でも時代を軽く超えて、世界中を魅了することが出来るのでしょう。

とりわけ人類は(少々大袈裟だけど)彫刻、建築は古代ギリシアで、

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絵画はルネサンスの時点で究極の域に完成してしまった。

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人々の感性に直接訴えることの出来る、この二つの時代の作品達を超えることなど出来ないのかもしれない。その後生まれた時代や地域を代表するいくつもの優れた作品ですら、この二つの時代に到達した美の極みの派生に過ぎないのではないだろうか。ルネサンス期の作品を見るにつけ、こんなことに思い至ってしまうわけです。

 

「なぜ?」と問い、追求していくのがルネサンスの精神ならば、僕もルネサンス人でありたいと思う。

 

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