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旅行の記憶と何気ない日常を

フィレンツェとレオナルド

f:id:fukarinka:20220208231713j:plain"Uomo universale" 「万能の人」

人々は彼のことをこう呼びました。天文学、地質学、光学、力学、解剖学、数学、土木建築を極め、後世の様々な分野に影響を及ぼした「万能の人」はここフィレンツェで生まれ育ちました。

生涯のうち29歳までをフィレンツェで過ごし、その後ミラノはじめ放浪人生。そして一時フィレンツェに戻った(48歳~54歳)けど、その後再びフィレンツェを離れてから2度と故郷に戻ることはありませんでした。

フィレンツェに生まれ、フィレンツェに育まれ、フィレンツェを離れ。。。フィレンツェはレオナルドにとってなんだったのか。レオナルドとフィレンツェについて、たどってみたいと思います。

■静かな誕生

レオナルドは1452年4月15日、フィレンツェから約30km北西に位置するヴィンチ村に生まれた。父は公証人セル・ピエロ、母は身分の低い女性カトリーナ、私生児として。

■ヴェロッキオ工房

ヴェロッキオ工房は当時すでに実質の君主であったメディチ家の依頼を一手に引き受けていた、当時のフィレンツェではもっとも名の通った工房で、ルネサンスを彩る巨匠ボッティチェッリ、ペルジーノ(ラファエロの師)もこの時すでにヴェロッキオの弟子でした。

ある日のちょっとした出来事から、息子レオナルドに絵の才能を見出した父は、1466年レオナルドが14歳のとき、金工家・画家・彫刻家のヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)に弟子入りさせた。 

当時「工房」と言われる場所は、絵画、彫刻は当たり前、建築、甲冑作り、金属細工、装本、紋章、楽器、洋服、兵器の製造から祭りの準備まで、造形分野のあらゆる仕事を請け負っていました。レオナルドの才能は突出していたにせよ、当時のフィレンツェの工房では「万能」が求められ、職人(芸術家)たちも鍛えられていったのでした。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ「円球と十字架」(1471年 レオナルド19歳)

フィレンツェのドゥオモ、サンタ・マリア・デル・フィオーレのクーポラの上に輝く「金の円球と十字架」は1471年に取り付けられたヴェロッキオ工房の作品で、レオナルドが19歳のときこの仕事に参加しました。

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キリストの洗礼(1472頃 Uffizi蔵 ヴェロッキオ工房作 レオナルド20歳)

師ヴェロッキオとの共作。レオナルド20歳のときに製作に参加した。背景と左下の天使がレオナルドによる。

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背景は後の「モナリザ」はじめレオナルド作品によく描かれる景色の片鱗が見られます。

そして、左レオナルドの天使の表情、肌の色艶、髪の毛の緻密な表現は師ヴェロッキオを圧倒していました。ヴェロッキオはこれ以降絵を描くのをやめてしまったとヴァザーリは記しています(が、諸説あり)。

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レオナルドは1472年20歳の頃に画家組合からマスターの資格を得て画家として独立を考えたが、この時はヴェロッキオ工房に残る。このときに初の単独作を製作した。

それが

受胎告知(1472-75頃 Uffizi蔵 レオナルド20-24歳)

西洋絵画ではおなじみの場面。自然の中で大天使ガブリエルが聖母マリアイエス・キリストの受胎を告知する瞬間。フィレンツェの近郊サン・バルトロメオ修道院の食堂のために描かれた。未完成がほとんどのレオナルド作品の中では貴重な完成作。

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服や髪の毛、登場人物の描写はのちのスフマートをはじめその後のレオナルドのさまざまな技法を予感させる作品です。技法、そしてレオナルド独特の自然の描写がみられ、24歳にしてその空気感がすでに出来上がっているような一枚です。

聖ヒエロニムス(1480-1482頃 Musei Vaticani蔵  レオナルド28-30歳)

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レオナルドの解剖学の知識が存分に生かされた未完の作品。苦行に身悶える聖ヒエロニムスの姿が迫真の描写がされている。誰が何のために依頼したのか、なぜ未完のまま放置されたのかわかっておらず、謎の多いレオナルドの作品の中でも、ひときわ謎の多い作品。

詳細は「ローマ、ヴァチカン美術館」にて。

東方三博士の礼拝(1481-82 Uffizi蔵 レオナルド29-30歳)

フィレンツェ近郊のサン・ドナート・ア・スペコート修道院から依頼された祭壇画 。輝く星の出現によってキリストの誕生を知った東方の三博士が誕生したキリストを礼拝するためにベツレヘムを訪れた。奥行き深く、聖母マリアとイエスを囲む人たちの表情や身振りはのちの「最後の晩餐」を予感させるものとなりました。

未完のこの作品はレオナルドが描いていく過程を知るものとしても、貴重な作品といわれる。

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修復前

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修復後

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1482年末頃、レオナルドはミラノへ旅立ってしまいます。この絵は知人に未完成のまま預けられ放置されました。

レオナルドは描いている途中でこの絵の完成した姿を想像できてしまって、それ以上書く意欲を無くしてしまったために放置された。そんな見方もある。

僕が見た「東方三博士の礼拝」上の状態でした。近年修復によって、下の状態になったらしい。

「キリストの洗礼」、「受胎告知」、「東方三王の礼拝」の3枚の絵はウフィツィ美術館の第15展示室に並べて飾られています(当時)。

以降レオナルドはミケランジェロラファエロが得たような強力なパトロンにはめぐり合えず、生涯自分のやりたいことをやらせてくれる相手を探しもとめ各地を渡り歩くことになる。

 

■ミラノへ

1482年末ころ「東方三博士の礼拝」を仕上げることなく、この後レオナルドはフィレンツェを去り、ルドヴィコ・イル・モーロの招きに応じてミラノへ向かったのでした。

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■再びフィレンツェ

1500年レオナルド48歳の年、フランス王ルイ12世のミラノ侵攻をきっかけに、弟子のサライと友人とともに18年ぶりにフィレンツェに舞い戻ります。

当時のフィレンツェはと言えば、フィレンツェを最も輝かせたロレンツォ・イル・マニーフィコが死に、メディチ家は落陽のごとく衰退、その混迷のフィレンツェを導こうとした修道士サヴォナローラも火刑に処されたあとでした。この頃のフィレンツェは重苦しい空気が支配していた。

レオナルドのかつてのライバル・ボッティチェリはサボナローラの思想に侵され、画家としてはすでに廃人だったといいます。そして、このころミケランジェロ(24歳)、ラファエロ(16歳)など新しい才能が活躍を始めた時期でもありました。

 

聖アンナと聖母子(下絵1501年 レオナルド49歳)

未完成ながら2日間の工房での公開で、たくさんのフィレンツェ人が熱狂したという下絵。当時の様子をヴァザーリはこう書き残しています。

「二日間にわたり、老若男女がこの下絵を見るためにこの部屋を訪れた。まるでレオナルドの奇跡を見るための祝祭のようで、みな心を打たれた」

この下絵は残されていないのですが、後(1512年)に油彩で描かれた作品は現在はルーブルで見ることができます。

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チェーザレ・ボルジアの建築技術総監督、軍事技師(1502年 レオナルド50歳)

彗星のごとく現れ、飛ぶ鳥を落とす勢いで諸国に侵攻するチェーザレ・ボルジアに対して、フィレンツェ共和国フィレンツェの軍隊をボルジア軍に組み入れ、丸ごと傭兵として雇うとし実質チェーザレに屈した形となりました。

レオナルドは1502年、フィレンツェ共和国の建築技術総監督、軍事技師としてチェーザレ・ボルシアに仕える。そしてチェーザレ・ボルジアの失脚。

実はレオナルドはスパイとして活動したという説もあり、フィレンツェ共和国フィレンツェに戻ったレオナルドを暖かく迎え入れ、サンタ・マリア・ノヴェッラの法王の間を住居として与えられた。

ジョコンダ~モナ・リザ(1503〜 Louvre蔵 レオナルド51歳)

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レオナルドはモナ・リザサンタ・マリア・ノヴェッラの法王の間で描きはじめます。未完の大作が多いレオナルドですが、この「モナ・リザ」は異例のスピードで描かれていったといいます。

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モナ・リザの製作依頼についても諸説あり、「フィレンツェ貴族のフランチェスコ・ディ・ザノビ・ジョコンドが新居の記念に妻エリザベッタ(愛称リザ)の肖像画の製作をレオナルドに依頼した」というのが世間で知られる依頼の経緯と言われます。一方で後に法王となりレオナルドをローマへ呼び寄せることになる ロレンツォ・イル・マニーフィコの3男ジュリアーノが、愛人である女性の肖像画を内々に依頼、それがジョコンド氏の妻リザだったという話もある。これには様々な説がささやかれ、何が本当でモデルは誰なのか、今でも論議がつづきます。

依頼の経緯はどうあれ、レオナルドはほぼ完成した「モナ・リザ」を依頼主にも誰にも渡すことなく、レオナルドはこの絵に筆をいれつづけ、終生持ち歩いたのでした。

詳細はパリ・ルーブル美術館にて

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ミケランジェロとの対峙

アンギアリの戦い(下絵 1504年 ヴェッキオ宮殿の隠された壁? レオナルド53歳)

ヴェッキオ宮殿の五百人広間にレオナルドとミケランジェロが絵筆を交えた。かつてミラノ公国と戦い、勝利を収めた「アンギアリの戦い(Battaglia di Anghiari)」を壁面に描くことをフィレンツェ行政長官から依頼される(モナリザ製作開始と同じ頃)。

数ヵ月後、その対面する壁に、やはりピサとの戦いで勝利した「カッシアの戦い」がミケランジェロに依頼され、29歳のミケランジェロと53歳のレオナルドが背中合わせで絵筆を振るうこととなった。

しかし当時から不仲だった二人のルネサンスの巨星の競演は結局完成に至りませんでした。 1505年下絵を完成し、彩色を始めたレオナルドでしたが、使用した新しい技法の失敗により、アンギアリの戦いはそのまま放置される。一方、ミケランジェロもレオナルドが筆を置くと下絵のままで描くのをやめてしまった。

「アンギアリの戦い」、「カッシアの戦い」はその後56年間下絵のままでヴェッキオ宮殿の500人広間を飾っていました。そして 1560年、ヴァザーリは両壁面に「ピサ攻略」「シエナ攻略」のそれぞれ3枚の絵でレオナルドとミケランジェロの「世紀の対決」を封印します。

「アンギアリの戦い」の下絵はフランドル画家、バロックの巨匠P.P.ルーベンスが模写したものがある。すごい迫力です。

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この年の初めレオナルドはミケランジェロの「ダヴィデ」をどこに置くか設置委員会の委員となります。

■再びミラノへ

1506年54歳の年、レオナルドはフランス王ルイ12世の要請でミラノへ向かうためフィレンツェを後にした。よく年父の遺産相続の係争のために帰国した以外、二度とフィレンツェに戻ってくることはありませんでした。

 

レオナルドにとってフィレンツェとはいったいどういう場所だったのだろう。

ルネッサンスが花開き、あちこちの工房ではたくさんの作品が創造され、職人(芸術家)同士がしのぎを削り、またフィレンツェの市民の鋭い批評によって彼らの作品の質を高めていく。

ボッティチェリミケランジェロラファエロなど「美しさ」に徹したルネサンスの天才たちは、パトロンにも恵まれ多くの作品を残し、名声も得た。

しかしレオナルドは純粋に美を追及するのではなく、自分の「なぜ」を解くことを最優先にしました。その才能は認められながら「なぜ」を優先してしまうため作品の多くは未完となり、パトロンたちは徐々に離れていく。

レオナルドは自分の「なぜ」を満たしてくれるパトロンを探し求めてフィレンツェを離れ、放浪することになるのです。そして晩年にはフィレンツェどころかイタリアからも離れてしまう。フィレンツェはレオナルドにとって故郷でありえたのだろうか?

フィレンツェにうまれ、ルネサンスに育まれたレオナルドは結局フランスの地で生涯を終える。余生を異国の地で過ごしたレオナルドの心の中にあったのは、理解あるパトロンに出会い、「なぜ」の追求に没頭できた喜びか、自分を受け入れられなかった故郷フィレンツェを思う孤独か。

 

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