cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

フィレンツェ小話 レオナルドとS.M.N.

f:id:fukarinka:20220103162536j:plainレオナルドは「モナリザ」をここサンタ・マリア・ノヴェッラ法皇の間で描き始めます。後に人類の至宝と呼ばれる「モナリザ」が、なぜここサンタ・マリア・ノヴェッラで描かれることになったのか、モナリザ誕生の舞台を辿ってみます。

 

法皇の間

1431年にローマ法皇に即位したエウゲニウス4世を巡って起きたローマでの反乱によって、一時法皇はローマを離れることになりました。法皇フィレンツェでの住居がこのサンタ・マリア・ノヴェッラの「法皇の間」。この部屋は法皇の他には最高位の者だけが使うことを許されてきました。

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1503年にフィレンツェ共和国チェーザレ・ボルジアとの戦争が終わり、フィレンツェの重要なスパイとしても活動していたレオナルドは共和国政府から手厚く迎えられ、この最高位の人物しか使うことのなかった「法皇の間」を住居として提供されました。

エリザベッタの肖像画

そしてこの時、フィレンツェ貴族のフランチェスコ・ディ・ザノビ・ジョコンドが新居の記念に妻エリザベッタ(愛称リザ)の肖像画の製作をレオナルドに依頼した。これが今に至る500年を越える人類の至宝「モナリザ」の歴史の始まりで、ここサンタ・マリア・ノヴェッラ法皇の間がその舞台となったのです。レオナルド51歳、脂の乗り切った円熟期のことでした。

この法皇の間には中庭に沿ってアーチと円柱が連なる回廊があります。レオナルドの「モナリザ」には、今は失われていますが、この回廊の円柱が描かれてたことがラファエロの模写などからわかっています。

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レオナルドは依頼に対して気が乗らないとやたらほったらかして、完成までに何年もかかかることで有名でした。そして未完成が多いことも。

しかしこの「モナ・リザ」は異例のスピードで描かれていき、フィレンツェ滞在の3年間でほぼ完成の状態にまでなっていた。

実はこの「モナリザ」のリザは、ジュアーノ・デ・メディチ公の愛人だったと言われ、実際にはレオナルドはジュリアーノ公から「モナリザ」制作の依頼を受けた可能性が高いとも言われます。この絵を描くにあたって、レオナルドはリザを楽しませるために音楽家と道化師まで雇ったと言われており、それは一貴族の夫人に対する扱いとは違うし、「モナリザ」の微妙な表情は、このエリザベッタの微妙な立場からのものなのかも知れません。

 

3年間のフィレンツェ滞在、法皇の間でほぼ完成状態にまでなった「モナリザ」でしたが、結局、依頼主の手に渡ることなくレオナルドは終生自分の手元に置き、筆を入れ続けました。レオナルドの生涯築いてきた技法の集大成でもあった「モナリザ」は、レオナルドの中では完成に至らず、依頼主に渡すことができなかったと想像します。晩年にフランスのアンボワーズに自ら持ち込み、レオナルドが亡くなる間際まで加筆は続いたと言います。

 

モナリザ」はその後500年フランスにあり続け、今はルーブルでたくさんの人を魅了し続ける。ここサンタ・マリア・ノヴェッラ法皇の間から始まった奇跡です。

 

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