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フィレンツェ4 フィレンツェのドゥオモ

f:id:fukarinka:20220109023029j:plainフィレンツェのドゥオモ(Santa Maria del Fiore 花の聖母聖堂)

ヨーロッパではじめてのオレンジ色のクーポラ(ドーム,円屋根)は、今も昔もフィレンツェのシンボルとして、とてもよく空に映えます。旅から戻ってくるフィレンツェ人には故郷が近くであることを、外からの訪問者には目的地に到着したことを教える役目も担ってきました。

フィレンツェは紀元前59年に当時のローマの執政官ユリウス・カエサルにより入植地としてローマ都市化=近代化が進められた。このときに「花の女神フローラの街」という意味の「フロレンティア(Flōrentia)」と名付けられる。それ以来、現在に至るまでフィレンツェは2000年の間「花の都」であり、「花の都」のドゥオモはSanta Maria del Fiore(花の聖母聖堂)という、その名の通り花のように可憐で凛々しい建物なのです。

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奥行153m幅38m高さ114m、教会として世界4番目の大きさとなるフィレンツェのドゥオモ。

完成した今の美しい姿に至るまでは、さまざまな才能が集いながらも紆余曲折した長い歴史がありました。

 

■花の聖堂の始まり

周辺の都市国家にくらべまだフィレンツェが都市として目立った特徴が無かった頃、1294年にシエナやピサの大聖堂に触発されたフィレンツェの羊毛組合が、当時街の美術復興の先頭に立っていたアルノルフォ・ディ・カンビオ(Arnolfo di Cambio 1245-1302)に新しい聖堂の建設を依頼しました。4世紀からこの場所にあったサンタ・レパラータ教会にかわる新たな教会の建設、これがこの「花の聖母堂」の歴史のはじまりです。

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1296年、カンビオが設計したドゥオモは着工されましたが、1302年にカンビオが亡くなると工事は中断。その後ジョット、アンドレア・ピサノなど著名な建築家とともに建設が進められ、1418年工事はクーポラを残すのみとなります。

■大クーポラ

クーポラのデザインを決めるため1418年にコンクールが開かれます。ここでは1403年にサン・ジョバンニ洗礼堂の北扉のコンクールで敗北したのをきっかけに彫刻家を捨て建築家としての道を極めたブルネレスキ(Filippo Brunelleschi 1377-1446)が優勝。フィレンツェのシンボル、ドゥオモのクーポラはブルネレスキのプランで1420年に着工し、1434年に完成クーポラ自体が完成します。直径45.5m、高さ55mの基礎の上に作るドーム(クーポラ)は史上初。ブルネレスキは古代ローマの工法研究から新しい構造を考案します。厚さ2m、傾斜角度のきつい2重ドーム構造をとることによって、高さ55mの場所で足場を作らずにドームを完成させる画期的な工法が実現します。

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1436年、たまたまフィレンツェに居合わせた(?)教皇エウゲニウス4世によって献堂式が行われ、サンタ・マリア・デル・フィオーレは当時、大クーポラをいただく唯一の教会として誕生したのでした。

 

■工事はつづく

着工から140年、教会として正式に機能ははじめたものの、建築としてのサンタ・マリア・デル・フィオーレはまだまだ未完成でした。

天蓋と黄金の十字架

クーポラの頂上部の高さ21mの白大理石の天蓋部はブルネレスキの設計に基づいて1461年完成。1471年にその上に金の球と十字架が置かれます。これは当時ヴェロッキオ工房が担当し、当時まだ10代、ヴェロッキオ工房に入門して間もないレオナルドがこの制作と工事に参加したようです。

最後の審判

1572〜1579年にかけて、ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari 1511-1574)とフェデリコ・ズッカーリ(Federico Zuccari 1542-1609)によって、クーポラ内部の天井に「最後の審判」が描かれます。これはサン・ジョバンニ洗礼堂のモザイク画からインスピレーションを得たと言われています。

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混迷のファサード

今見られる白、赤、緑の大理石による色鮮やかなファサードは19世紀に完成したものです。

もともとカンビオの設計によるファサードの工事が進んでいたのですが、カンビオ死去と構造上の問題から中断。長い間未完成のままの状態でした。16世紀にメディチ家のフランチェスコ 1世により新しいファサードの建設が指示され、一旦カンビオのファサードは撤去されます。しかし新しいファサードは市民の理解えられず難航します。17世紀には石の表面に騙し絵を描くなどサンタ・マリア・デル・フィオーレのファサードは混迷を極めました。

19世紀になってようやく、

1871-1884年にエミリオ・ファブリス(Emilio De Fabris)によって、14世紀フィレンツェの装飾様式を再現する形で、新しいファサードが設計、建設されました。

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*夕日に染まるファサード

ファサードの扉

ファサードにはまる青銅の扉がルッカ出身の彫刻家アウグスト・パッサリア(Augusto Passaglia)によって1903年に完成。

 

■サンタ・マリア・デル・フィオーレ完成

20世紀初頭、この扉の完成によってようやくサンタ・マリア・デル・フィオーレは完成しました。13世紀末から始まった工事は実に600年の歳月をかけて完了したのでした。

 

この聖堂建設の長い歴史の中で、何度も建設主任がかわったり、そもそも時代も大きく変わってきた中で、現在のサンタ・マリア・デル・フィオーレの姿はつぎはぎ感がほとんどないのです。これは初代建築家のカンビオやジョットの構想思想を、後世の建築家たちがしっかり受け継ぎ建設を進めていった結果によるもの。ブルネレスキのクーポラにしても、可憐なファサードにしても、600年の時を経ながら作られたというのが嘘のよう。

このことは各時代の建築家たちが建物の調和を最優先にした結果であり、サンタ・マリア・デル・フィオーレが600年を通して、そして今に至るまでフィレンツェの心の象徴であり続けていることの証なのだと思います。

 

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