ミラノとレオナルド・ダ・ビンチ
Milano e Leonardo Da Vinc
レオナルドとミラノの関わりは1471年、レオナルドが19歳のときから始まります。その年、ルドヴィコ・イル・モーロがフィレンツェ共和国を訪れ、フィレンツェでは歓迎の宴が催されました。それを取り仕切ったのが、レオナルドが弟子入りしていたヴェロッキオ工房。このとき将来のパトロンであるルドヴィコと初対面を果たしますが、当時のレオナルドは未来のことなど全く意識はしていなかったことでしょう。
レオナルドは1482年30歳からの17年間と1504年54歳からの13年間をミラノで過ごします。
レオナルドはミラノで傑作さらに奇跡と呼ばれる作品を沢山生み出し、その名声を高めますます。ミラノにはレオナルドという才能を開花させる土壌があった。そしてレオナルドはそれに応えた。これはミラノにとっても、レオナルドにとっても、そして後世を生きる僕たちにとってもとても幸運なことだったに違いない。
*第1期ミラノ(1482-1499 30歳〜47歳)
1482年、30歳のレオナルドはミラノに到着します。この時は実質ミラノ公国の実権を握ったルドヴィコに対して、フィレンツェ共和国の「豪華王」ロレンツォ・メディチが祝いのための文化施設団を派遣するのですが、レオナルドは音楽好きのルドヴィコに贈った楽団の一員としてミラノ入りします。レオナルドはリラの演奏家として、自作の銀製のリラをルドヴィコにプレゼントするため、また自分自身を売り込むためにミラノに来たのでした。
この時期のミラノはルドヴィコが実権を掌握し、絹織物と武器製造で富を成したいわば都市国家としての最盛期。芸術に造詣が深かったルドヴィコはミラノを花の都フィレンツェ以上の華やかな街にすべく、たくさんの芸術家や建築家をミラノに呼び寄せていました。
レオナルドはこの最盛期のミラノにやってきて、1499年にミラノ公国がフランスによって侵略されるまで、とても充実した17年間を過ごしました。
*スカラ座広場にあるレオナルドの像
30歳(1482年) ミラノに来たりて
■自薦状
レオナルドはルドヴィコへ自薦状をしたためます。その内容は全10項目。当時はまだ近隣諸国との争いが絶えない時期だったことで、1〜9項目は戦争時に役立つ、他国より優れた兵器や設備の数々を考案できると売り込みます。そして最後の10項目で平和な時代には建築や土木技術を街づくりに役立てることができるとしながら、そして最後のほうにほんの少し「絵も描けます」と添えている。
万能の人は現代の僕たちにとって「画家の顔」が一番有名だと思うのだけど、この当時「画家」としてのアピールが一番最後のおまけみたいになっていたところが面白く、また秀逸です。
この年にレオナルドはミラノのドゥオモの中央塔の設計案を送るが不採用となる。これが採用されていたら、今とはまた違ったドゥオモが見られたかもしれない。
31歳(1483年) レオナルドならではのトラブル
■「岩窟の聖母」制作
ミラノの教会から祭壇画として依頼され、1483-1486年にかけて製作したが、いくつか宗教的なルールから外れる(光輪や十字架がない)ところがあったためにか、依頼主には引き渡されずに、レオナルドから教会とは関係のない別人に売り渡されたと言われている。ルーブル所蔵となっているこの作品は、フランス王家のコレクション記録として1625年からはっきり記録されているのだけど、詳しい入手経路や年代はわかっていない。1500年ころにルイ12世によって買い取られたというのが有力な説らしい。
*岩窟の聖母(部分)
この時レオナルドは依頼主を訴えていて裁判になります。そしてこの決着は20年後に果たされる。その20年後の話は後ほど。
32歳(1484年) 影の功労者
■チェチリア・ガルレラーニの肖像(白貂を抱く婦人)制作
このチェチリアは才色兼備のとても聡明な女性でありルドヴィコの愛妾でした。ルドヴィコは政治から宮廷運営、都市計画に至るまでチェチリアの意見を取り入れたと言います。レオナルドに自薦状を出すよう進めたのも、レオナルドをルドヴィコに採用させたのもこの人の才覚によると言われており、ミラノでのレオナルドの活躍を生み出したのは実はこの人のおかげかもしれない。
*ポーランドのツァルトリスキ美術館所蔵
レオナルドはルドヴィコからスフォルツァ家初代君主の巨大な騎馬像の制作依頼を受け制作に着手。ルドヴィコは大量の青銅を購入して鋳造を待っていた。
36歳(1488年)
■都市計画や建築に関する手稿をまとめる
■このころから貴族の結婚式の演出(?こんなことまで。。。)を手がける
40歳(1492年)
■「ヴィトルヴィウス的人間」の手稿まとめ
紀元前1世紀のローマの建築家ポッリオ・ヴィトルヴィウス著作の「建築論」を読んで、感動して描いた「メモ」。建築論に記された「人体の規則性」を鏡の前で実践したもの。つまりここに描かれているのは髭のないレオナルド自身。このメモの上下にもレオナルドの鏡文字がびっしり書かれている。
*ヴェネツィア アカデミア美術館所蔵
41歳(1493年)
■スフォルツァ公騎馬像の原型を展示
10年をかけて粘土性の騎馬像原型が完成、スフォルツェスコ城のヴェッキア中庭に置かれた。巨大な騎馬像の原型に人々は驚き、レオナルドを賞賛したといいます。
ルドヴィコはこの高さ8mという巨大な騎馬像のために百トンの膨大な青銅を購入済みで、この年に鋳造が始まる予定だった。ところが、この年フィレンツェのロレンツォ・メディチが亡くなったことで、イタリア都市国家間の政治的パワーバランスが崩れ、社会不安が一気に高まります。またフランスがイタリアに侵攻する噂が広がり、世の中が一気に戦争準備モードとなってしまう。それに巻き込まれ騎馬像用に準備した青銅は大砲へと使われてしまい、以降も騎馬像が完成することはなかったのです。
42歳(1494年)
■運河工事の設計監督
43歳(1495年)
■「最後の晩餐」制作開始(1497年完成)
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47歳(1499年)
■フランス軍のミラノ侵攻をきっかけに弟子たちとともにミラノを去る
*第2期ミラノ(1506-1513 54歳〜61歳)
1506~13年にレオナルドは征服者であるルイ12世の招きに応じて再びミラノで過ごします。
54歳(1506年)
■「岩窟の聖母」裁判決着と2枚目制作
買われることのなかった「岩窟の聖母」についてのミラノ総督に対する20年越しの賠償裁判が決着。追加報酬を支払う代わりに新たにもう一枚祭壇画を書くことで決着。この時制作されたのが、下の「岩窟の聖母」(ロンドン ナショナルギャラリー所蔵)。聖母はじめ光輪があったり、洗礼者ヨハネが十字架をもっているほか細かい点でいろいろ異なる。重要な部分はレオナルドが描いたものの、大部分が弟子たちの手によると言われている。
57歳(1509年) 万能
■以前手がけていた運河工事の設計監督再開
■解剖学の研究再開
■「聖アンナと聖母子」制作開始(1512年完成)
遡って1494年、フランス軍に蹂躙され陰鬱な空気にあったフィレンツェで、レオナルドの下絵画稿が2日間限定で公開され、人々が熱狂したと言われる。それを油彩で制作したのがこの作品。スフマートの完成形とも言われる傑作です。
*ルーブル所蔵
58歳(1510年)
■解剖学の研究を手稿にまとめる
61歳(1513年)
■ジュリアーノ・メディチの招待に応じてローマへ出発、再びミラノを去る
冒頭にも描いたのだけど、ミラノはレオナルドの才能を引き出し、活躍と飛躍のばとなりました。レオナルドにとっては恵まれた環境であったのと同時に、ミラノにとってもかけがえのない財産を得たことになりました。現在スカラ座広場にレオナルドとその弟子たちの像が立ち、レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学博物館が建ち、どこにも奪われることのない「最後の晩餐」があり、ここミラノにはレオナルドの足跡が多く残っています。
破壊と繁栄を繰り返し、第2次世界大戦では壊滅的な被害を受けたミラノの街の再起、復活の中心にはレオナルドの存在があり、ミラノの人々を勇気づけ大切にしてきたものは常にレオナルドが残したものだった。
レオナルドはミラノで飛躍し、ミラノはレオナルドによって何度も危機を救われた。