最後の晩餐(L'Ultima Cena)はキリスト教の中でもとても重要な出来事として、古くからたくさんの「絵」がイコンや芸術作品として残されています。レオナルド以外にも、たくさんの著名な画家たちがこの「キリスト処刑前夜に弟子たちと供した夕食」の場面を描いているのです。その中でこのレオナルドの描いた「最後の晩餐」は別格に扱われます。それは万能の人レオナルド・ダ・ヴィンチによるこの作品の質そのものもさることながら、その生い立ちもまたこの絵が特別であることを示しています。今ここにこの絵が存在すること自体が奇跡であると。
*「汝らのひとり、我を売らん」
レオナルドの最後の晩餐にはイエス・キリストが「お前たちの一人が、私を裏切るだろう」と弟子たちに告げたその「瞬間」が描かれています。
僅かに開くイエス・キリストの口元。弟子たちの表情や体の動きからイエスの言葉の広がりと弟子たちの心の動揺が、まるで今そこで繰り広げられているが如く表現されていると言います。怒り、驚き、悲しみ、嘆き、惑い、疑い。。。十二使徒それぞれの性格とその後の運命を暗示するように構成され描かれた様子は、「この瞬間」であると同時に十二使徒たちがこのあとたどる運命も同時に表現されていると言われ、この絵をより一層深いものにしている。これはレオナルドだから到達できた領域であり時代を超えて多くの人々を虜にする理由でもあります。
*ミラノで買った板絵
*最後の晩餐の誕生
1494年、レオナルドはミラノ公国君主ルドヴィコ・イル・モーロにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の修道院の食堂の壁に「最後の晩餐」を描くことを依頼された。
1495年43歳のレオナルドは一人でこの絵を描きはじめ、約3年かけて1497年に完成、この「最後の晩餐」は完成直後から人々の賞賛を集めます。1499年にはフランス軍がミラノ侵攻した際にルイ12世はサンタ・マリア・デッレグラツィエを訪れ「最後の晩餐」を前にしてこう呟きます。
「この絵を持ち帰りたい」
流石にこの絵を壁から剥がしてフランスに持ち帰ることはできませんでしたが、それほど圧倒的な魅力がこの絵からは放たれていたのです。
*科学者レオナルド
レオナルドは修道院の食堂の壁画を修道僧がキリストと十二使徒と共に最後の晩餐を過ごしていると感じられるように描きます。まるで食堂の中に最後の晩餐のテーブルが存在するかのように遠近法(一点透視図法)を駆使して描かれました。食堂のある位置からは実際の壁や天井のラインと壁画のラインが一致して同じ空間と錯覚するように描かれています。
人物はほかのレオナルドの作品と同じく解剖学に基づいて正確に人の体を表現、使徒たちの顔にはシワまで描き込まれていたことがわかっています。
また、壁画としては漆喰に顔料で描く耐久性に優れるフレスコ画が主流でしたが、フレスコ技法では重ね塗りができないためスフマートのような表現ができません。レオナルドは壁画として最適なフレスコ画ではなく自ら考案した油彩絵の具を使用して描きます。しかし、画家であり科学者であるレオナルドのこの選択が後に仇となってしまうのです。
*ミラノで買った絵葉書↓
*悲劇の始まり
精緻な表現のためにレオナルドが考案した油絵の具(いわゆるテンペラ)は湿気に絶えられず、完成直後からひび割れがはじまります。ルイ12世が「持ち帰りたい」と呟いた時点ですでに、絵の具は剥がれ始めていたといい、20年後にはカビでおおわれ、60年後の1556年にヴァザーリの記録によると「広がったシミのほか何も見えない」状態、150年後の記録によれば「じっと目を凝らさないと何を描いたかわからない」状態にまでなってしまったとあります。
さらにもうひとつの悲劇として、「修復」という名の破壊が行われてしまった。
間違った手法での修復はこの絵の傷をさらに深くしてしまいました。記録に残っている最初の修復は1726年。4度の修復の記録がある。ここで行われた修復は修復ではなく加筆に近いものでした。レオナルド研究者は嘆きました「レオナルドではなく、後世の修復家の絵になってしまった」と。
*戦火の中の悲劇と奇跡
第2次世界大戦下1943年8月16日に連合軍の爆撃によりこのサンタ・マリア・デッレグラツィエ教会は壊滅状態となります。修道院の被害も激しく食堂の大半が崩れてしまいました。しかし、レオナルドが描いた「最後の晩餐」の壁だけは奇跡的に崩れずに残った。
神父たちが爆撃の数日前に、この絵を後世に残すためにと最後の晩餐の壁の前後に天井まで土嚢を積み上げた。これによって最後の晩餐は爆撃から守られたのでした。
*最後の晩餐のルネサンス(再生)
最後の晩餐が完成してから480年後、1979年に現代科学を動員しての最後の晩餐の修復がはじまりました。この取り組みは修復というより、修復の度に書き加えられた余分な絵の具を取り去り、レオナルドの肉筆を取り戻すいわば「洗浄」作業。レオナルドの肉筆自体がもともと剥がれやすい油絵具であるため、その作業は困難を極め、20年もの歳月を経て1999年作業完了、「修復家の作品」となっていた最後の晩餐は「レオナルドの作品」に戻ることができた。
*下の写真ファサード左の黄色い建物が修道院への入り口となっている
*レオナルドとの対面
僕が「最後の晩餐」を初めて見たのは1991年。
ここはまだ古い修道院の食堂のままでした。中では足場が組まれとても静かに、とてもゆっくりと修復作業が進められていた。当時ちょうどイエス・キリストの顔の部分が覆われており全体の半分以上が何かしら隠れて見ることはできなかった。
1996年に再び訪れてみると、絵の修復はほとんど終わって最後の晩餐はその全貌を眺めることができるようになっていました。そして食堂の壁、天井はきれいに漆喰が塗り直されいて、さらにこの部屋は密閉されて空調も完備、出入り口には自動ドアとすごい変わり様で、かつての「古い修道院の食堂」は「近代的な最後の晩餐保管の間」にすっかり姿を変えていました。
中に入り長いこと最後の晩餐の間で過ごし、いろんな角度距離からじっくりこの絵を鑑賞しました。近寄ったり、離れたり、壁にへばりついたり・・・
近寄って見ると修復後とはいえ、やはりもともとの破損がひどく痛々しい姿はそのままで、その様子は1556年にヴァザーリが書き記した状態と変わりないと思われる。しかし離れて見るとその全体像が鮮明に現れ、レオナルドが描いた最後の晩餐が、ルイ12世がこの壁から剥がして持ち帰りたいと思ったその姿が、この修復によって蘇ることができたのだと実感。
僕がレオナルドの傑作と向き合っている間、いろいろな団体観光客が入れ替わり立ち替わり通りすぎていく。でも、ときどき僕以外だれもいなくなる時間がちょこちょこあり、そんなときは短い間だけど、多くの人々の尽力と奇跡によって守られてきた人類の至宝レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を独り占めできたようでとても幸せでした。