cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

欧州列車の小話 フィレンツェへ

f:id:fukarinka:20220103023503j:plain初めてのフィレンツェへはローマから電車利用しました。

ローマのテルミに駅からフィレンツェS.M.N.駅まで約1時間40分の距離です。

このフィレンツェの「S.M.N.」ってなんだよと思いながら列車に乗り込みガラガラのコンパートメントに入る。朝早かったのもあって六人使用のコンパートメントを独り占め、とおもった瞬間イタリア人の若者が入ってきた。

例によって何のアナウンスもベルもなく列車は静かに走り始め、ローマを後にします。しばらくローマの郊外を走りやがて自然豊かなイタリアの風景が続きます。天気も良く車窓を流れる景色もとても気持ち良い。これはフィレンツェまで、景色見てたらあっという間についてしまうと思っていました。

f:id:fukarinka:20220103022247j:plain

後から入ってきた若者が、昨日は徹夜で眠りたいからコンパートメントの電気を消して良いかと聞いてきた。こんなに明るい状態で灯もなにもないだろ?と思いながら「いいよ」と答える。若者は「Grazie」と電気を消して、腕を組んで眠りについた。

僕はといえば、一応フィレンツェの予習をしようとガイドをもちながら、実際はほぼ窓の外を眺めています。なだらかだったイタリアの風景が徐々に起伏が出始めた。するとその景色はまた豊かでこれはいつまででも眺めていられる、と思ったその瞬間、ブラックアウト。列車はトンネルに入ったのでした。そして、このコンパートメントは電気を消しているので、ほぼ真っ暗。何もできなくなった。。。

後で知ったことなのですが、ローマを出てしばらくするとトスカーナの起伏に富んだ地形が始まり、鉄道はトンネルの連続になるのです。なのでフィレンツェに着くまでのかなりの間、車窓の景色は拝めません。

この時、若者の求めに応じて電気を消してしまったので、何もできず。仕方ないので僕も寝ることにした。でもこれまたトンネル出ると明るい光がバシッと入ってくるのでそう簡単に眠れない。というか、連続するトンネルを出るたびに起こされる。なんてことを繰り返しているうちに列車はフィレンツェに近づいて、速度もゆっくりスローダウン。緑豊かな丘陵田園風景から徐々に街の建物が増えてきた。

そのとき左手に巨大なオレンジ色のクーポラが現れた。フィレンツェのドゥオモ「サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母教会)」が迎えてくれました。

f:id:fukarinka:20220103022446j:plain

ちょっと靄がかかった空に太陽を背にしたその雄大な姿を見て思った。フィレンツェルネサンスのころから、旅人をこうやってお出迎えしてきたのだろう。この姿を見ることでフィレンツェに住む人はほっと安堵しただろうし、外から来る人はこれから体験するフィレンツェという街に期待が最大になっただろう。そして敵国の人間であればフィレンツェが手強い国であることを悟っただろうな。

 

花の都フィレンツェの誕生は古代ローマ共和政期、紀元前59年に遡ります。

春の盛り、ローマの「花の祝典(ludi florales)」 の祭日に、街を築くために神々に祈りがささげられたました。花の祝典の日に誕生した新しい街は「フロレンティア(花の女神・フローラの街)」と名づけられました。

ユリウス・カエサルにより街が興り、ハドリアヌス帝の時代にはより一層美しい街となったフィレンツェでしたが、その後に待っていた長く暗い中世の間に無秩序に作られたハリボテの街が、崩れ落ちた美しいローマの廃墟を覆っていったと言います。

そして13世紀の中ごろ一大転換期が訪れます。

フィレンツェで毛織物が発達して金融業が隆盛した。経済が潤い、政治も成熟期に入ろうかという頃、アーノルフォ・ディ・カンビオが古代ローマの街をベースに新しい街づくりを始め、フィレンツェの市民がそれに続いた。 サンタ・マリア・デル・フィオーレ、ヴェッキオ宮殿、サンタクローチェ、ヴェッキオ橋、ポンテ・デラ・グラツィア・・・明確な都市計画によってフィレンツェの街を再興し、その後の建築家、芸術家たちへ道を示した。以降、富豪たちパトロンをバックに、多くの優秀な芸術家たちが競って見事な建物を作り、フィレンツェは比類ない美しい街へと成長していったのでした。

そしてその結果、フィレンツェルネッサンスに包まれていくのです。

 

もうすぐフィレンツェS.M.N.駅に到着です。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com