実しやかに語り継がれる伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日に狼に育てられた双子の兄弟の兄ロムルスによって王国として現在のローマのパラティノの丘の上に誕生しました。そんな一部落のような小さな国だったローマが徐々に拡大、王国から共和国に代わってもその勢いは増し、やがて地中海をすっぽり囲む大国となります。紀元前1世紀頃になると、拡大したローマの領土は、それまでの共和制、つまり元老院主導の寡頭政体では統治困難な状態になっていました。この頃すでに元老院の機能の限界をしめすこととなったわけです。
当時「密かに」機能不全の共和国ローマの統治をコントロールしていたのが、カエサル、ポンペイウス、クラッススの3人。民衆からの絶大な人気を誇るユリウス・カエサル、軍事的な実績では右に出るものなしのポンペイウス、ローマ随一の財力を誇る大金持ちクラッスス。実質この三人がローマを仕切っていた当時の政体は「三頭政治」と後世に呼ばれます。紀元前60年ころに始まった三頭政治は密かにローマを支配していました。
*ガイウス・ユリウス・カエサルのかなり美化された胸像(キアラモンティのカエサル)
そして紀元前56年3月にここルッカで三頭が集い会談を行った。これをルッカ会談と言って、歴史の教科書にも三頭政治とセットで載っていた(と思う)。
このルッカ会談は共和政ローマにとっての大きなターニングポイントとなります。
これを境に、それまでは秘密裏に行われていた三頭政治が公のものとなり、ローマが新しい方向に「目に見えて」動き出すと同時に、古い風習にしがみつく元老院側と、現在のローマに合った政体を作っていこうとする三頭側の対立があらわになってゆく。そして陰謀や裏切りにまみれながらローマは帝政へと大きく変貌していくことになるのでした。
さて、この重要な会談がここルッカで行われた理由はなんだったのでしょう?
- 当時属州総督としてガリア戦役の途中だったカエサルは軍隊を率いており、法律上ローマ本国に入ることは許されませんでした。当時、本国ローマと属州の境界である西のアルノ川か、東のルビコン川の外側(属州側)の街を選択する必要があった。
- この時期ポンペイウスはピサ(ルッカとは目と鼻の先)からスペインへ向かう任務があったのでルッカはとても好都合。
- クラッススはどうにでもなった。
こんな風に三頭の会談場所はルッカに決まったようです。
いまから2000年前、ここルッカのどこでこの会談が行われたのか、さっぱりわからない。現地にもそれらしい痕跡は何もない。いい観光資源になると思うのだけど、驚くほどに何もなかった。
でもルッカ会談がこの街のどこかで行われたことは間違いない。ルッカはローマ以前のエトルリアの時代からずっとここにあるのだから。。