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ちょっとローマ史2 王政から共和政へ

第7代、最後の王となったタルクィニウスの暴君っぷりに散々懲りたローマ人は、これ以降独裁政への嫌悪感を民族のDNAにこれ以上ないほど深く刻みこむことになりました。

ローマの王は世襲ではなく選出により決まるので、王政とは言っても絶対王政ではありません。伝説が本当だとして初代王ロムルスが定めたという、3つの機関「王」「元老院」「市民集会」を機能させれば、またローマの「王」の性質からして「独裁者一人のなすがまま」の状態は避けられそうなものです。しかし「王」という肩書きの魔力なのか、それなりの権力が与えられてしまうと、それに乗じたおかしな人物が現れてあらぬ方向へ組織が進んでしまうというのはいつの時代も、大小関わらずどこの組織にも起こるようです。

いずれにせよこのエトルリア人の王タルクィニウス・スペルブスによって、ローマ人のDNAには完全にアンチ王(独裁)が刻まれ、国家は新しい国の形、共和政へ移行していきます。

このローマの共和政は王の代わりに二人の執政官(コンスル / consul)が政治を執り行います。元老院の中から二人、任期1年として国政にあたる。元老院と市民集会はそのまま継続。選挙で選ばれるがひとりの終身職だった王を、任期1年で2人の執政官を置くことで権力集中とチェック機能の強化を図ったといえます。

共和政ローマの初代執政官のひとりは最後の王タルクィニウス・スペルブス追放を実現し、のちに「伝説の執政官」と呼ばれるルキウス・ユニウス・ブルートゥス(Lucius Iunius Brutus)でした(ちなみに後のカエサル暗殺の首謀者マルクス・ブルートゥスの先祖にあたる)。

ローマは509年に共和政に代わったといっても後も、当時はまだ「王」が「二人の執政官」に代わっただけ、ほぼそう言う状態でした。旧王タルクィニウス勢力との争いや、王の名の下に同盟を結んでいた周辺都市の裏切りとの争いが絶え間なくつづきました。この絶え間ない戦争は兵士として駆り出されるローマ市民、とりわけ農民たちを苦しめ、貴族と平民の対立が深刻になります。当時のローマにとって、内部統制を万全にし、国家としてのまっとうな仕組みを作ることが急務でした。

そこでローマは調査使節団を派遣します。紀元前5世紀半ばに地中海世界でもっとも成功していた都市国家アテネへ、国あり方、社会制度や法律などを学ぶために視察団を送ります。元老院議員3人で構成された視察団は約一年間アテネに滞在してさまざまなことを学ぶのでした。僕はこの3人のアテネ派遣にとても興味津々です。

アテネ アクロポリスパルテノン神殿

当時アテネは黄金期を迎えていました。天才政治家ペリクレスにより史上初めて民主制が成立し、おそらく政治経済そして文化において他国を圧倒する強い都市国家となっていました。ローマの使節三人はその輝かしいアテネを訪れ、アテネの民主政はじめ社会の仕組みについて注意深く観察した。そして彼らはあることに気づくのです。

アテネの政体は表向きには民主政ではあるが、ペリクレスがいなければ成り立たない、一種の独裁制であると。

*ユーロになる前、ギリシアのコインに刻まれるペリクレスの肖像

この時派遣された三人の元老院議員はアテネの表に見える成功ではなく、その後ろ側にあるものを洞察しました。何が優れて、何が劣り、自分達が取り込むべきモノが何かを的確的に判断した(この約20年後、ペリクレス亡き後のアテネの運命はこの三人の見方が正しかったことを証明します)。

三人が帰国後、この視察の結果をもとにローマで初めての成文法「十二表法(Lex Duodecim Tabularum)」が紀元前450 年頃に誕生します。訴訟、債務、家族、結婚、相続、財産、不動産、葬儀、犯罪などに関してまとめられたといいます。視察団の3名も加わった特別な委員会組織で制定され、完成した条文は12枚の銅板に記されたことからこの「十二表法」という名前がつけられたといいます。しかしこの「十二表法」の中身はローマ市民からするとかなりの期待はずれだったといい、その結果、後世何度も修正されたため完成当時の「十二表法」は今となっては「よくわからない」と言う状態らしい。なんともお茶目です。

この話を聞いて、僕はこう思ったんです。

三人の元老院議員は絶頂期のアテネを中心にスパルタなど先進的なギリシア都市国家を巡ったと考えられます。特に当時アテネの街は、現代に至る建築の頂点で、当時完成したばかりのパルテノン神殿アクロポリスの丘に聳えていたはず。彼らは目を見張るような神殿や彫刻といった芸術や、数学や科学、哲学やさまざまな学問が街に溢れているのを目の当たりにして、全てにおいて自国ローマを思い、比較してしまったと思います。そして相当に焦ったのではないかと。成文法もさることながら、国家の方向性をさっさと定めて、早くローマをアテネのような都市国家に近づけたい。そう思ったに違いない。と勝手に想像してしまうのです。

紀元前753年、ならず者の集まりだったローマは、300年たった紀元前5世紀にはギリシアで冷静にその民主制の意味を読み取れるだけの人材を備える国家に成長しました。いろいろな混乱の中、ローマの共和制は始まり、模索しながら走りながら、500年をかけて少しずつ共和国としての形を整えていくのでした。

 

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