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カエサル5 民衆派として立つ

立つカエサルはB.C.65、35歳の時に按察官(エデイリス / aedilis)に就任します。按察官とはローマの公共施設の管理や祭儀の管理を行う官職でした。

カエサルはこの年、この官職を利用してローマ街道の補修と剣闘士試合開催という二つの大事業を行います。しかも自費で、しかも借金で。

ひとつ目:ローマ街道の補修

「ローマ街道」とは今でいう高速道路で、3層構造で頑丈に基礎が固められ、その上に平らな石を敷き詰めたいわゆる舗装された高速道路。人や馬や荷車、更に軍団がスムーズにスピーディに行き来するための道で、ローマの経済と軍事を支える重要なインフラとしてローマの領土の隅々まで機能的に整備されていました。ちなみにこの非常に頑丈な基礎は、今でもそのままイタリアやヨーロッパの道路に使われているほどでローマの技術力の高さを示します。

 ローマ街道の基礎構造

さて、ローマ街道は国家ローマを人間に例えるなら血管網といったところ。そのローマ街道の中でも最も重要で古く「街道の女王」と呼ばれるのが「アッピア街道(Via Appia)」です。アッピア街道はB.C.312年に施設されたローマと、古くからギリシア、エジプト、オリエントへの玄関口として機能する都市ブリンディシ(イタリア語Brinndisi / ラテン語Brundisium)を結んでいて、名実ともに最重要な街道として知られていました。カエサルはB.C.65のこの年、大々的にこのアッピア街道をメンテナンスします。しかも自費で(借金で)。

 アッピア街道(白線)

二つ目:派手な剣闘士競技会主催

元々ローマでは剣闘試合は故人の追悼のために、紀元前3世紀頃に始まったと言われており、この年按察官となったカエサルは何年も前に亡くなった「父の追悼」という名目で640人もの剣闘士を集めて剣闘士競技会を提供しました。自費で。さらにその際、試合が派手に演出されるようにと剣闘士の装備、盾や鎧はカエサルが派手で見栄えのするものを揃えて剣闘士達に支給され、カエサルがプロデュースした競技会は盛大に開催され、市民を大いに楽しませたといいます。

剣闘士を描いたモザイク

 

按察官として行ったこの二つの事業は、前者は市民がとてもよく知る重要なインフラのメンテナンス、後者は市民に対する大規模な娯楽の提供、その両方を自費で(とはいっても借金によって)行ったことは、1年という按察官の任期の中で、民衆からのカエサルの人気を不動なものにしてしまった。

 

三つ目の公共事業

前出の二つに比べると規模は小さいけど、実はこの年もう一つ重要な公共事業を行っています。そして実はこの三つ目が最も重要だったように思うのです。

カエサルはスッラの時代に元老院派に破壊された、叔父マリウスの戦勝記念碑を16年ぶりに再建します。按察官の公務の守備範囲ということではあるのだけど、マリウスはいまだ国賊扱いのままとなっていました。「国賊の記念碑の再建」というカエサルの申し出に対して、元老院のお歴々は、民衆の支持を受けたカエサルを止めることはしなかった。いや、まだカエサルなど一介の若造と、止める必要すら感じなかったのかもしれません。でも実はこのマリウスの戦勝記念碑の再建がその後のカエサルを決定づけたと思えてなりません。この民衆派の英雄マリウスの戦勝記念碑を復活させたことで、ただの人気ではなく、カエサルが民衆派の指導者として庶民に認知されることになった。ただの人気だけでなく指導者として支持されることの意味は大きかったと思う。

 

カエサルが最初からどこまでシナリオを描いていたのかはわからない。でも、按察官という立場を利用したこれら公共事業によって、カエサル自ら、カエサル=民衆派(Populares)を明言することなく世間はそう認知することになりました。元老院には直接的な刺激を避け、ローマ庶民から「民衆派カエサル」としての強い支持を得ることに成功し、ローマの政界で戦っていくための強力な武器を手に入れた。

B.C.65年とはカエサルにとって、とても重要な年だったと思うわけです。

 

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