パリの街をちょっと一休みして、ここで少しパリの歴史を、簡単に辿ってみましょう。
紀元前3世紀■パリの始まり
ガリア人の一部族パリシイ族がシテ島に集落を作ったことがパリのはじまり。
紀元前1世紀■先進都市への変貌
古代ローマのユリウス・カエサルがガリア遠征。この時パリシイ族はローマ軍に敗れ、ローマはここにローマ都市を築きます。この時を境に原始パリは「都市」として飛躍的な発展を遂げることになる。当時パリは「ルテティア・パリシイオルム(パリシイ人の川中居住地)」と呼ばれるようになります。
*これはチュイルリー庭園に立つ「ユリウス・カエサル」の像
ローマ人はシテ島を神域とし、主に左岸に広場、浴場、半円形劇場といった公共施設を建設しました(現在のカルチェ・ラタン地区)。また上下水道施設も完備して快適に生活できる当時の先進都市へと変貌していきました。
ローマ人が近代都市化を初めてから500年後の4世紀頃からパリシイ族の住むこの街は「パリ」と呼ばれるようになるのです。
6世紀■遷都と衰退
ローマ帝国が衰退すると、北部ガリアの小王クローヴィスがフランク族を統合し、さらに周辺民族を従えてフランク王国を設立し、首都をパリにおきました。
8−10世紀■首都衰退と復活
8世紀フランク王国の首都はパリから移り、パリは街として衰退。
10世紀にバイキングの進入に悩まされるフランク王国をパリ伯ユーグ・カペーが救う。
カペーが王となり、カペー王朝が創始すると同時に再び首都をパリに戻し、以降現在に至るまでパリは首都であり続けます。
13世紀■英国との争いとパリの発展
フィリップ2世は十字軍遠征と英国との争いからパリを守るため、67の円塔を配した高さ9m厚さ3mの堅固な市壁を建設する。またルーブル城を整備してセーヌ川の守りとした。また右岸にレアル市場を、左岸にサントジュヌヴィエーヴを整備してパリをそれまでより10倍の規模にする。商人、職人、学生が集まり人口は10万人に達する大きな発展を遂げる。
ちょうどこの頃、パリ市の市章が決まります。
古い帆船とともにラテン語でこう記されています。
「FLVCTVAT NEC MERGITVR 〜たゆたえども沈まず」
(フランス語では il est battu par les flots mais ne sombre pas )
意味は〜どんな荒波に揺られようとも沈みはしない〜
王が彼らセーヌ川水運組合の船乗りたちにパリの街づくりを任せました。船乗りたちが「どんな困難にも負けることのない街に」という意思を込めて、自分たちの組合の紋章をパリの市章に採用しました。
16世紀■宗教戦争とパリ改造、芸術大国への道
1517年ルターの宗教改革によって生まれたプロテスタントとカトリックの争いがエスカレートし、それに乗じた各国の覇権争いに発展、ヨーロッパは混乱の極みでした。この宗教戦争によってパリも飢餓と荒廃に苦しむことになります。
同じ頃神聖ローマ帝国と争ったイタリア戦争を通じて、イタリアルネサンスの芸術に感動した当時の王フランソワ1世は宗教改革の混乱の最中、フランスを芸術大国へ導く。王家のコレクションが充実し始めたのも、レオナルドをアンボワーズに招聘したのもこの頃。
そして次の王アンリ4世はフランソワ1世の後を継ぎ、芸術大国に向けて大胆なパリ改造を試みる。市庁舎を作り、ルーブル宮を拡張、当時技術の結晶であるポンヌフを完成、王立織物工場を創設、火災防止のために木造家屋の禁止を行う。アンリ4世はパリを美しく発展させる。
*ポン・ヌフに立つアンリ4世
17世紀■ブルボン王朝
アンリ4世がカトリックの狂信者によって暗殺された後、ルイ13世が8歳で即位することになります。8歳の王にかわり母であるマリー・ド・メディシスが摂政として政治を取り仕切り、その後宰相のリシュリュー侯爵が権力を振るったのでした。
この時期、パリも大きく変化します。リュクサンブール宮殿やパレ・ロワイヤルの建設といった施設の整備、ソルボンヌ大学の改革といった教育改革、そしてバロック様式の教会を多く建設して宗教(カトリック)改革も勢力的に行われました。
1643年にルイ13世がなくなり、ルイ14世は5歳で即位しました。当時の財務総監はルイ13世の時代以上の建設事業を行い、パリの街を太陽王にふさわしい「新しいローマ」に作りかえようとしました。市壁が撤去され、大通りが作られ、ルーブル宮は拡張、ロワイヤル橋、ヴァンドーム広場やアンヴァリッドが作られたのもこの時期。この時パリの人口は60万人。
太陽王ルイ14世にふさわしい街へとパリが生まれ変わろうとする中、当の王は宮廷をヴェルサイユに移してしまいます。
18世紀■フランス革命
戦争による財政破綻、飢饉による食糧難、疫病によって、街は荒廃するのですが、学問、芸術の中心であり続けます。でもその多くのツケによる市民の不満がついに爆発、ルイ16世の治世である1789年にフランス革命が起きます。
パレ・ロワイヤルに集まった市民が武器を取り、アンヴァリッドの武器庫を占領、そしてバスティーユの監獄を襲撃したのがフランス革命の始まり。その後革命派の敵とみなされた二千六百人もの人々が捕まり、コンシェルジュリーに収監され、コンコルド広場に設置されたギロチンの犠牲になるのでした。1793年1月にはルイ16世が、10月にはマリーアントワネットがコンコルド広場で処刑された。
19世紀■ナポレオン
革命後に頭角を現したナポレオン。イタリアやエジプトなどに遠征し勝利を治めては戦利品として星の数ほどの美術品をパリに持ち帰ってきました。そして1804年、ノートル=ダムで行われた戴冠式で「皇帝」に即位。ナポレオンはパリを「ヨーロッパ帝国の首都、学問と芸術の中心、栄光の劇場」として、過去の王たちと同じく「新しいローマ」にすべく壮大な都市計画実現に動いた。
上水路の整備、卸市場やワイン市場の創設、1万本の街灯設置といった公共設備に始まり、ルーブル拡張、エトワールとカルーセルの2つの凱旋門、マドレーヌ寺院建設、バンドーム広場の塔の建設、証券取引所の設置などを行ったのでした。19世紀はじめ、パリの人口は70万人を超えていました。
ナポレオン3世は1850年代から発展してきたパリの中で取り残されていた地域の大改造を行います。人々がひしめき、衛生的にも不潔で疫病源ともなっていた貧民街をいったん取り除き、上下水道とガス管を整備、広い道を敷いた。この頃パリは周辺地域を併合して現在の広さになりました。
凱旋門に集まる12本の道、シャンゼリゼ、通りに並ぶ建物を同じ高さ同じデザインにする街並み、オペラ座、裁判所、教会、市場、橋。。。この時にほぼ現在見られるパリの姿が完成、ナポレオンが目指した「新しいローマ」が「栄光の劇場」が完成したのです。
人口は1870年に200万人を超え、名実とも世界の文化の中心都市となりました。
■パリ万博
19世紀当時世界の産業と芸術の中心だったパリでは11年毎に万博が開催されていました。
第1回は1855年、ナポレオン3世のパリ大改造の最中。その後も定期的な開催は続き、1889年にはエッフェル塔が、1900年にはグラン・パレ、プチ・パレが、1937年にはシャイヨー宮といった、現在もパリを華やかせている重要な建物が誕生します。
パリ万博と日本の関係、ひいては日本と印象派の関係は実は深く、1867年第2回パリ万博で日本は初参加をしています。徳川幕府と薩摩藩の使節が派遣された(この頃パリで印象派が誕生します)。
現在パレ・ド・トーキョーと呼ばれる市立近代美術館は1937年にパリ万博の日本産業館としてできた建物です。
そしてこのパリ万博に出展するため陶器などの展示品を、輸送で壊れないようにと紙で包んだのだけど、その時使われたのが大量の「浮世絵」でした。それを見つけた当時の主に印象派の画家たちが衝撃を受け、浮世絵の収集が盛んに行われ、画家たちの感性に大きな影響を与えたと言われています。印象派はことのほか日本人に人気があると言われていますが、それはここに理由があるのかもしれません。
20世紀■ベルエポック
古き良き時代。20世紀初頭、第1次世界大戦前までの時期をさします。ナポレオン3世のパリ大改造が完成し、1900年の万博ではグラン・パレ、プチ・パレが登場、建築は鉄とガラス、鉄筋コンクリートの時代が始まる。そしてメトロ1号線が開通したり、アレクサンドル3世橋が完成し、またアールヌーボーが誕生します。
この頃モンマルトルやモンパルナス界隈には世界中から芸術家、音楽家、作家といった文化人や亡命してきた政治家や金持ちが集まるようになっていた。
パリが花の都と呼ばれるようになったのはこの頃。
■新しいパリとグラン・プロジェクト
1964年にオペラ座の天井画をシャガールが描いて以降、古いものと新しいものの融合が始まります。「古き良き」は大切に残しながら、新しいものを加えていく。そんなパリの進化が20世紀後半に起こりました。
1973年にパリ初の超高層ビル、モンパルナスタワー完成。その足元には近未来的なつくりのパリ・モンパルナス駅ができた。1977年レ・アル地区にポンピドゥセンターが、1979年フォラム・デ・アルが誕生。歴史的なパリに近代的な建築が次々と誕生しました。
1981年、ミッテラン大統領が提唱したグラン・プロジェクトは1989年フランス革命から200年の年に向けて9つのプロジェクトが実行されました。ルーブル美術館の大改装、ラデファンスにグラン・ダルシュ(新凱旋門)の建設、新国立図書館、新大蔵省庁舎など。。。
パリは芸術大国として進化を続けている。フランソワ1世がその舵を切ってから500年、パリは世界に誇る芸術の都になった。そしていまでも進化を続けている。古き良き伝統を守りながら、新しいものを生み出し取り入れている。だからパリは面白い。
グラン・プロジェクトの中で僕に大きくかかわるプロジェクトといえば、ルーブルの大改装「グラン・ルーブル」。それからもうひとつ1900年のパリ万博で作られたオルセー駅舎を改装して美術館にするプロジェクト。これによって、オルセー美術館が誕生。おかげで僕は何度もパリに足を運ぶことになったのです。