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旅行の記憶と何気ない日常を

ローマと南フランス

f:id:fukarinka:20200414182043j:plainアルルを訪れた年、南フランスの街をいくつか回った。

当時はまだそれほど知らなかったのだけど、実は南フランスはローマの足跡がとても多いところだった。

 

都市国家として生まれたローマがイタリア半島を統一した後、ガリア(現フランス)に勢力を拡大していく過程で初期から属州化された地域が南フランス一体だった。

紀元前600年頃現在のマルセイユギリシア人の街ができたのが最初でそこからニースやアルルなど今もある街を作り広げてていった。国家としてのギリシアが弱体していき、やがて変わってローマが勢力を拡大していく。アルルの都市としての発展は紀元前123年にローマがこの地方を属州化した時。ローマの都市インフラや街道が整備され、今に続く街の土台ができた。国としてのローマが勢いを増している最中、本国イタリアのすぐ隣なので、整備されたインフラの質も高い。そしてこの地域はローマの属州として長いこと優等生であり続け、政治的にも安定した地域だった。これが南フランスにローマの遺跡が多く、現代まで残っている理由と考えられる。

少しだけど、訪ねた南フランスの街を辿ってみよう。

 

ニーム Nimes

街のおこりは紀元前6世紀というからアルルとほぼ同じ時期。街がローマ化されてインフラが整うのは、ローマに植民地化された紀元前44年以降なので、ローマ化=当時の近代化がプロバンスの街々より約半世紀ほど遅れることとなる。

ここニームは南フランスではアルルと並んで重要な役割を果たしていた街だったので、円形闘技場や神殿、門などローマの遺跡がたくさん残っている。

 

▪️円形闘技場

今でも残っている円形闘技場はアルル同様、今でも現役で使用されている。

1世紀末頃に建設された2層構造の闘技場。他の遺跡同様、要塞にされたり色々な用途に使われた割には保存状態がとても良い。

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Arena @Nimes

 ▪️メゾン・カレ Maison Carree

ローマの神殿遺跡の中で最も保存状態の良いものとされている。実際再建か復元されたのではないかと思っていたが、ニームの人たちがローマのやり方に沿って、長い間大事にメンテナンスを繰り返してきたおかげで、建設当時の状態をとてもよく保っているのだという。

紀元前16年ころコリント様式の神殿として建設されて以降、いろいろな用途に転用されてきたけど、4世紀にキリスト教会として使われたおかげで決定的な破壊を免れた。これが昔の姿をとどめることができた大きな理由のようだ。

ギリシア、ローマの神殿でほぼ完璧なものを見たのはこの時が初めてだったので、メゾン・カレをぐるぐる何周もして、じっくり見た。

今は美術展示場として使用されて、中にも入ることができる。

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Maison Carree @Nimes

▪️マーニュの塔 Tour Magne

ローマの城壁に設けられた見張りの塔の遺跡。もともと高さ36mの立派な塔だったが17世紀にノストラダムスの予言詩の勘違いで破壊されてしまったという数奇な歴史を持っている。今ではフォンティーヌ公園の中、ニームの街を一望できる展望台としても活躍している。

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Tour Magne @ Nimes

ポン・デュ・ガール Pont du Gard

50km離れたユゼスの泉からニームの街に水を引くために作られたローマ水道。その途中ガール川が流れる渓谷を横切るために作られたのがこの水道橋ポン・デュ・ガール

各地に残る水道橋の中でも最も大きく、美しいアーチを持っている。19年にこの水道橋の建設を主導したのはアグリッパという、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの右腕として活躍した人物。この人は戦場では優れた軍人として、平和な時期には優れた都市計画者として帝政ローマの初期を支えた。ローマのパンテオンはじめたくさんの建築を残している。

それにしても50kmもの距離を水が流れるようにつけた傾斜は10m進んで僅か2.4mm。ほんの僅かなを傾斜をつけた正確な水路を作る技術力、谷があれば水道橋を渡してでも目的地まで水路を通す心意気と、構造的に合理的で見た目にも美しく自然にも調和する芸術センス。古代ローマ人には脱帽するしかない。

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Pont du Gard

僕はポン・デュ・ガールに来て、その上に立ってみた。大きなバックパックを背負いながらだったので、ちょっとよろよろして撮ったのが下の写真。右側はまっすぐ谷底。

今は水の流れていない水路を通って反対岸まで行かれる。写真のように水路には蓋があり大事な泉からの水にゴミなどが入ってこないようになっている。さらにこの蓋は中央が少し高くなっていて、雨水が溜まらないようにできている。さらに水道橋はまっすぐ一直線ではなく写真の左から右へ緩やかな弧を描いている。これは下を流れる川の流れか、この地を吹き付ける風に対しての備えかも知れない。知れば知るほどローマ人の緻密さ凄さ、センスの良さが沁みてくる。

僕はポン・デュ・ガールにローマの技術とセンスと心意気に感激して、ここを離れた後、南フランスを迷走して半日以上を潰すことになる。その話はまた別の機会に。

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ポン・デュ・ガールに立つ

 マルセイユ Marseilles

マルセイユはもともとマッシリアというギリシア人が作ったプロバンスで最も古くからあった街。紀元前3世紀にカルタゴがローマによって滅びた後は西地中海第一の都市として栄えたと言われる。

マルセイユはニースへ行く途中でほんの2時間ほど立ち寄っただけだったのだけど、丘の上の綺麗な駅舎、ヨットハーバー、遠くに見える教会、海があるせいだろうか今までのプロバンスの街とは違う風情が感じられる。この時はあまり時間が取れなかったけど、いつかゆっくり滞在したい。

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Marseilles

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マルセイユの駅

ニース Nice

マルセイユより東側、トゥーロンからイタリア国境までの海岸地帯を「コート・ダ・ジュール Cote d'Azur(紺碧の海岸)」と呼び古くから海岸リゾート、リヴィエラと呼ばれたりもする。ニースの周りには他にもカンヌ、エズ、アンティーブ、モナコといった名前を聞いただけで溜め息が出るような街が点在する。

ニースはマルセイユ同様かつてギリシア人の街として起こり、勝利の女神を意味するニカイアと呼ばれ、紀元前2世紀からローマの街となった。多くの戦乱を経て、19世紀にはエリート達の保養地となり今に至っている。

 

僕はマルセイユからニースへ海岸沿いを列車で走った。車窓から見える地中海とコート・ダ・ジュールの景色はそれは美しいものだった。できることなら、何度も途中下車をして気がすむまで歩きたかった。

マルセイユを出た時には雲ひとつない真っ青な空が、ニースに近くに従い雲に覆われてしまった。さらにニースでは雨にも降られスカッとした紺碧の海岸という訳にはいかなかった。

 

ニースで列車を降りて、街に出る。

今までの南フランスの街とは違う、洗練された街並みと空気。それもそのはずニースの街はひたすら歩いた。街の中心を抜け海岸に出て、プロムナード・デ・ザングレを歩き展望台に登り、見事な海岸線を眺める。天気が悪く気持ちもせっかくの街の色もスカッと晴れない。

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プロムナード・デ・ザングレ Prom. des Anglais

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ニースの海岸線

見事な海岸線を見た後、海と反対側の丘にある、シャガール美術館へ歩いて行った。そこには今まで僕が知らなかったシャガールがあった。旧約聖書をテーマとした絵が数百点。題材も色使いもそれまで僕が知らなかったシャガールがたくさんあった。そして、シャガールのステンドグラスは今まで見たこともない幻想的なものだった。

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アブラハムと三人の天使 @シャガール美術館 ニース

ニースの街をひたすら歩き、夕方もう一度地中海が見たくなって海岸へ戻った。そこで出会った海は息を飲むほどの姿でした。この話は次の機会に。

 

ローマ史を知ると、この南フランスとローマの関係がとても古く深いものだと理解できます。地中海をなぞるように点在する街はどこも魅力的で時間があれば時間をかけてじっくりと巡りたい。またいつか南フランスに行きたい。

 

 

 関連リンク

ニース シャガール美術館 [フランス・ツーリズム旅行情報局]

Chagall - Musées nationaux des Alpes maritimes

 

 

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