ピサの街の起源はルッカと同じくエトルリア人と言われていますが、ほかにも諸説あり学術的にはちゃんと立証はされていないようです。起源はさておき、この街を飛躍的に発展させたのはローマ人。紀元前180年には植民地ポルトゥス・ピサヌス(Portus Pisanus)としてローマに組み入れられ、紀元前89年からローマの自治都市となります。古くから軍港として機能していた街は、ローマの中でスペインなど西へ行くための重要な港町として大発展を遂げました。
そして数々の都市国家がイタリアに存在した中世9世紀頃からはヴェネツィアやジェノヴァ、アマルフィとともに大海運国家としてその名を世にとどろかせ、12~13世紀には地中海の制海権を握り、東方貿易によって大きな富を築いた。しかし13世紀末にアルノ川をさかのぼった先にあるフィレンツェの支配下となり、その後1865年にイタリアが統一されるまで、ピサはフィレンツェの陰として時代を過ごした。というのが簡単なピサ史。
■アルノ川
ピサの駅について旧市街へ向かうとアルノ川にぶつかります。アルノ川はフィレンツェと繋がっているので、ここをさかのぼっていけばフィレンツェにたどり着けます。
写真の奥の方、アルノ川の対岸にヨーロッパ最古の大学「ピサ大学」があります。
また右の脇に、写真では影になってしまっているのだけど、小さな教会があります。
■サンタ・マリア・デラ・スピーナ教会(Chiesa di Santa Maria della Spina)
「いばらの聖母マリア」と呼ばれるこの教会、とても小さく雰囲気も今まで見たことのある教会とはひと味違う。「いばら」を感じるその外観は1230年ピサ・ゴシック様式で建設されたもの。
もともとサンタ マリア ディ ポンテノヴォ(Santa Maria di Pontenovo 新しい橋の聖マリア)と呼ばれ、もっと川の近く、橋の近くの低いところに建てられました。1871年にアルノ川氾濫で浸水したため、今の場所に移設されました。
さて、なぜ「いばら」か?
イエス キリストがゴルゴダの丘で磔刑に処されたときに「いばらの冠」を被せられた。その冠の「トゲ」が聖遺物として1333年にピサにもたらされ、この教会に納められた。キリストの「いばら(Spina)」はもうここにはないそうですが、このちょっと変わった教会にはこんな由来があるのです。
■メッツォ橋(Ponte di Mezzo)
アルノ川にかかるメッツォ橋からの眺めです。
奥にある時計塔をもった建物は現在市庁舎として使用されるプレトリオ宮殿(Palazzo Pretorio)。もともと中世に建てられたプレトリオ宮殿に1829年、時計塔が増築されました。そういえば、建物下側と上の時計塔はちょっと様子が異なりますね。
アルノ川を渡って、旧市街にはいると一気に雰囲気が変わります。中世に地中海を支配したPISA共和国の栄華が感じられる、古く洗練された街並みが現れるのです。
■カヴァリエリ広場(P.za dei Cavalieri)
ピサの街の小さな、でも二番目に有名なアカデミックな広場。古代ローマ期の政治の中心であるフォロの跡であり、中世は政治の中心、16世紀以降は聖ステファノ騎士団の本部、現在はピサ大学の一部となっています。16世紀フィレンツェの支配の下、コシモ・デ・メディチによって多くの建物が建設され今のような壮麗な広場になりました。
右にあるのはカロヴァーナ宮殿(Palazzo della Carovana, 現ピサ大学の分校 Scuola Normale Superiore)。中央にコシモの像が立ち、宮殿の壁面には歴代メディチ家の大公の胸像が象られている。左はオロロジオ宮殿(Palazzo dell'Orologio)。
そのほかピサ大学の法学部、文学部、大学食堂や、ヴァザーリが手がけた聖ステファノ教会(Chiesa Nazionale di Santo Stefano dei Cavalieri)に囲まれる、アカデミックで美し日広場です。
さらに歩いていくと古い街並みを歩いて進むと、突然斜塔が頭を出した。
さあ、いよいよ奇跡の広場へ向かいます。