cafe mare nostrum

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フォロ・ロマーノ 聖なる道と凱旋門〜フォロ・ロマーノ界隈3

ローマの街でよく耳にする「フォロ / Foro(イタリア語)」はラテン語で「フォルム / Forum)」と言い「公共広場」を意味します。そして"Forum"は「フォーラム」として現代日本でもよく使われる言葉となっています。ということでフォロ・ロマーノ / Foro Romano とは「ローマ市民の公共広場」を指します。

下の図はフォロ・ロマーノ付近のローマ帝政期の地図。初めてローマに行った時に道端の屋台で買った現地ガイドよりについていたもの。

地図中の「濃い緑色」部分がローマ市民の公共広場(フォロ・ロマーノ)、「水色」部分が後で触れる「皇帝たちの広場(フォリ・インペリアーリ)」、皇帝たちが市民のために作った公共広場です。

 

下は古代のローマ全体の模型(ローマ文明博物館 とても良くできている!)のフォロ・ロマーノ界隈。奥にコロッセオが見えます。

 

現代のローマを歩いてみます。

この景色を眺めてから、現在のカンピドリオの丘を左の方へ降りてフォリ・インペリアリ通りを行き、途中でフォロ・ロマーノに入ります。

すると目の前にはこんな景色が広がります。

沢山の神殿やバシリカの基台や円柱のかけらが広がります。奥の緑の高台がローマ発祥の地パラティノの丘。

フォロ・ロマーノに入って、少し進むと360度視界が晴れてぐるりとフォロ・ロマーノを眺められる場所に出ます。

右手、西側奥はカピトリウム(カンピドリオの丘)。その手前に威風堂々とした凱旋門。これは第20代皇帝セプティミウスセヴェルスの凱旋門。そして周辺には原型を留めない無数の建物の跡が散らばります。

 

180度反対方向を向いてみます。

左手東に視線を移すとこちらも原型を留めているものはなく、立っている構造物といえば微かに3つの円柱くらい。左手に古代ローマっぽくないけど教会らしき建物が見える。これはローマならではの実に特徴的な建物であることが後でわかります。

 

実は今何なく立っているこの場所は、「聖なる道」です。

Via Sacra(聖なる道)

古代ではローマで一番神聖なカピトリヌス(カンピドリオ)の丘の上まで続く道。ローマ軍が諸外国との戦いで勝利を納めた後に凱旋式が執り行われます。凱旋将軍とその軍団が列を成して市内を練り歩きパレード行い、その最後には必ずここ「聖なる道」を通りカピトリヌス(カンピドリオ)の丘の上のユピテル神殿へと進んでいきました。そんなローマで最も神聖な場所へ続く道がこの"Via Sacra(聖なる道)"なのです。

そして、「すべての道はローマに通ずる」という言葉の、

「すべての道」が行き着く先がこの"Via Sacra(聖なる道)"なのです。

 

ローマ帝国全体に広がっていたローマ街道。それにつづく全ての道がこの一本の”Via Sacra”に繋がります。今もあちこち残るローマ街道のすべてのマイル・ストーンの起点がここにあると思うと鳥肌がたちます。。。一部にかつての舗装(敷石)がそのまま残って往時を忍ばせてくれます。

その昔ローマには36の凱旋門がありました。現在ではそのほとんどが破壊されてしまい、フォロ・ロマーノにあった5つの凱旋門も、現在その姿を見ることができるのは3つ。2つは土台部分だけを残して姿形がありません。

セプティミウス・セヴェルスの凱旋門(Arcus Septimii Severi)

現存するひとつ。皇帝セプティミウス・セヴェルスがパルティア戦争の勝利を記念して紀元203年に建てたもの。193年から199年にかけて行われたパルティア戦役では二人の息子カラカラとゲタも参加。その二人もこの凱旋門に名前が刻まれています。

この凱旋門フォロ・ロマーノの一番奥、カピトリヌスの丘の麓に位置して、人々はこの凱旋門を通り神聖な丘を登っていくと言う、とても重要な役割を担っています。3つのアーチで構成されたデザインは100年後、フォロ・ロマーノの東の端に建てられたコンスタンティヌス帝の凱旋門に影響を与えました。

 

コンスタンティヌス凱旋門(Arcus Constantini)

セプティミウス・セヴェルスの凱旋門の対局、フォロ・ロマーノの東の端に位置するのがこのコンスタンティヌス帝に捧げられた「コンスタンティヌス凱旋門」。雄大コロッセオをバックに佇む姿は威風堂々、見事なものです。

4世紀ローマ帝国は分割統治されていて、コンスタンティヌスはその副帝に即位していました。すでに元老院や市民から信頼を失っていた正帝マクセンティウスとの戦いに勝利し、帝国唯一の皇帝に即位したのが312年、コンスタンティヌス在位10年目のことでした。この凱旋門はこの戦いの勝利の記念に、元老院ローマ市民が作り、315年にコンスタンティヌスに寄進したものです。

均整のとれたフォルムはとても洗練されていて、後世フランスはパリのカルーゼルの凱旋門の手本となりました。しかしこの凱旋門には大きな問題があります。それは凱旋門を飾る彫刻のほとんどが過去の五賢帝の時代に作られたものの転用なのです。ハドリアヌストライアヌスマルクスアウレリウスの時代の凱旋門から優れた彫像やレリーフが剥ぎ取られされ、ここに貼り付けられた。当時製作された部分もわずかにあるのだけど、その完成度は低く、明らかに転用されてきたものに比べ劣っていた。コンスタンティヌスはこのつぎはぎの凱旋門を見て、ローマの現状を悟り、ローマを捨てることを決意したといいます。この15年後の330年、コンスタンティヌスは帝国の首都をローマからコンスタンティノープルに移すのでした。

 

ティトゥス凱旋門(Arcus Titi)

第10代皇帝ティトゥスが70年にエルサレムユダヤ人の反乱を平定した記念として、弟ディオクレティアヌス帝(第11代皇帝)が81年に建てたものです。

シンプルで均整の取れた優れたフォルムは以降の凱旋門のお手本となりました。パリのエトワール凱旋門ティトゥス帝の凱旋門におおきな影響を受けています。

 

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