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旅行の記憶と何気ない日常を

カエサル12 ガリア戦役 フランス大西洋岸

ガリア戦役3年目(B.C.56年 カエサル44歳)

現フランス北西部ブルターニュ地方にはヴェネティ族がいました。ヴェネティ族は大西洋岸一帯では最も勢力のあるガリア部族で、優れた海軍をもち、ブリタニアとの親交もあった。一度ローマに対して恭順の意を示したものの、カエサル曰く「ローマ人に隷属するより先祖から受け継いだ自由を選んだ」。周辺のガリア諸部族を扇動し、ブリタニアに支援要請し反ローマ蜂起を画策していた。

現オルレアンでの冬営で兵糧の確保に苦労していたローマ軍団は、周辺のガリア部族へ小麦買取のために使節を送っていた。その中でヴェネティ族はその使節を捕らえて捕虜にし、ローマに対して捕虜交換の取引を持ちかけてきました。この情報をルッカで得たカエサルはいくつかの指示を軍団に出し、ルッカ会談を終えてから急ぎ軍団冬営地へと向かうのでした。

この年カエサルはヴェネティ族制圧を主戦線にすると同時に、大西洋岸のガリア平定をスムーズに行うため、信頼できる三人の幕僚を軍団とともにガリア各地へ派遣します。西で戦線展開するカエサルに対し、東のゲルマン人の押さえに絶対の信頼を寄せるラヴィエヌス、ヴェネティ族の南側のスペイン国境近くの部族の牽制にクラッスス(三頭のクラッススの息子)、北西側ノルマンディーへはサヴィヌスに、それぞれ兵力を与え派遣します。さらにデキムス・ブルータスには軍船を作らせ海からヴェネティ族を攻めるよう指示します。

ヴェネティ族の内情を熟知した上での4つの同時戦線はカエサルが派遣した幕僚三人が期待通りの働きを見せ各担当地域を平定し、カエサルが率いた本体もデキムス・ブルータスの海軍の活躍と合わせてヴェネティ族に勝利します。

元来、降伏を申し出てきた敵に対して、ローマは寛容に対します。しかし今回ヴェネティ族に対しては違いました。ヴェネティ族はローマに対して恭順を誓った。約束を破る相手に対してはローマもカエサルも容赦しない。ローマ人は敵であっても相手の文化を尊重し文明人として扱います。なので敗者に対しても寛容に対する。しかし一度交わした誓約を反故にする相手は文明人ではなく、尊重するに値せずと判断し厳しく対処する。ローマからの使節拘束に始まる一連のヴェネティ族の行為はローマ人がもっとも嫌う裏切りに値する。その結果、ヴェネティ族の長老格は全て処刑され、その他部族民は全て奴隷として売られることになったのでした。

 

そんな歴史に関係するかどうかわからないけど、フランスの大西洋岸というのは何か寂しげな印象があります。モネが描いたエトルタの海岸もオンフルールの街も、このモン・サン・ミシェルの景色も絶景でありながら哀愁のような空気を感じます。

 

ヴェネティ族の制圧が夏のうちに完了したため、カエサルはこの年予定していなかった現在のベルギー・オランダ北部の制圧行を行います。ここにはまだローマに恭順の意を示していない二つの部族の制圧が当初の目的でした。これ自体は途中で撤退に終わるのですが、この時ゲルマン問題の根深さと、もう一つブリタニア(イギリス)の問題をカエサルは悟ることになるのでした。

 

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カエサル11 ガリア戦役 ベルギー

ヘルヴェティ族(スイス人)の移動による混乱を防いだあと、ガリアの部族長によってゲルマン問題の詳細を知ったカエサルはB.C.58年に冬営に入る前にゲルマン人と対峙して、現在のライン河をローマ世界とゲルマン人の境界とすることに決めます。

ガリア戦役2年目(B.C.57年  カエサル43歳)は場所柄ガリア北西部のベルガエ(Belgae)族の征服行を行います。ベルガエ族はガリア民族なのだけど、すぐ隣のゲルマン人が古くから移り住んでいて、ゲルマン人の血が濃いガリア部族でした。またゲルマン人との争いが日常的だったベルガエ人は勇猛で有名で、このベルガエ人との戦いはローマ軍団であっても相当な苦戦することになります。数で6倍ものベルガエ族戦士との戦いを慎重に進めたカエサルは地形を利用した戦略と、援軍の到着によって何とか勝利し、ベルガエ族を制圧します。

この年のローマ本国への報告を「これでガリアは平和になった」と結びます。2年にわたるガリア制服行によって、ガリアの西側を掌握して混乱の元となるゲルマン人を抑えるという意味でガリアの平和は実現された。そしてローマ本国はこの報告に熱狂し、首都では過去にない最大規模の祝祭を開かれたのでした。

 

さてベルガエ族が住んでいたのは今でいうベルギー、オランダのあたりで、実際ベルギーは旧ローマ世界とゲルマン人の世界との境に位置しており、ベルギーを南北に分断するフランス語圏とオランダ語圏の境がその名残のように今でも存在しています。

もしカエサルがベルガエ族を征服していなかったら、ブリュッセルアントワープブルージュといった珠玉の街々も美食文化やGODIVAをはじめとする高級チョコレートもなかったかもしれません。

ベルギーの美しい首都ブリュッセル

 

ガリア戦役3年目(B.C.56年 カエサル44歳)

ベルガエ族を制圧して軍団を冬営地(現在のフランスのオルレアン)に残し、カエサルが向かった先はルッカでした。当時イタリアの重要な港町だったピサのすぐ近く、今でもとても趣のある城壁に囲まれた比較的小さな街にカエサルポンペイウスクラッススの三頭が秘密裏に集まり会談しました。

とにかくルッカ会談には記録がない。翌年に起こる出来事からすると、B.C.55年の執政官にはポンペイウスクラックスが就くこと、本来元老院が決めるプロコンスルとしての任地をこの時三人で決めたこと、三人が公式にそれぞれ十個軍団の戦力を持つこと、カエサルガリア総督としての任期をさらに五年延長すること、などが話し合われたらしい。秘密裏に行われたため、今でも風光明媚なルッカの街のどこでどんな風にこの会談が行われたのかほとんどわからない。

このルッカ会談が終わったあとカエサルはフランス北西部攻略のためにガリアに戻ります。前年の本国への報告で「ガリアは平和になった」と結んだカエサルでしたが、軍団の冬営期間中にガリア北西部の不穏な動きを察知したためでした。一度はローマに恭順を示したものの他国に従うことをよしとしないガリア人の蜂起はこの後も続きます。

 

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カエサル10 ガリア戦役 スイス

ガリア戦役 1年目(B.C. 58年 カエサル42歳)

ガリア戦役は今でいうところのドイツ人がスイスに侵入してきたことをきっかけに始まります。ガリア戦役一年目のこの年、現在のスイス人との争いが主な出来事でした。

当時トランサルピーナ(アルプスの向こう側)と呼ばれた地域、スイスのジュネーブのあたりはヘルヴェティ族というガリア人部族が住んでいました。すぐ隣のゲルマン人は度々ライン河を越えてヘルヴェティの地に侵入して略奪と居座りを繰り返した。このことに耐えられず、ヘルヴェティ族はやむを得ず先祖伝来のレマン湖のほとりにある土地を捨てての移住を決意します。しかしカエサルはそれを許しません。なぜならガリア全体にはたくさんの部族がいて小競り合いが絶えない状況で、ヘルヴェティ族36万人の民族の移動はガリア広範囲の混乱に直結するからでした。しかし背に腹変えられず36万人もの部族の移住を無許可のまま強行したヘルヴェティ族と彼らをもとの土地に戻したいローマ軍が衝突します。

訓練されたローマ軍団にとってガリアの一部族は敵ではなくヘルヴェティ族は20万人以上の犠牲を出して、元のレマン湖のほとりの土地に戻ったのは10万人ほどと言われています。

大噴水はなかったけど同じレマン湖の、ジュネーブの景色をヘルヴェティ族も

ローマの軍団兵も見たことでしょう。

 

現在のスイスの正式名称Confoederatio Helvetica(コンフェデラチオ・ヘルヴェティカ)は直訳すると「ヘルヴェティ連邦」。カエサルガリア戦役がなければ、今のスイスとスイス人は存在していなかったかもしれません。

カエサルはヘルヴェティ族をレマン湖畔に返した後、その根本的問題となっていたゲルマン人の部族を攻略してライン河の向こうへと返します。ガリアの諸部族の統一と同時にゲルマン人への対処も抜かりなく行わなければないことを実感した1年となったはずです。

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カエサル9 ガリアへ

前執政官(pro-consul)となったカエサルの任地ガリアとは、現在でいえばスイス、フランス、ベルギーといった地域を指し、100を超える部族が乱立し広大な湿地帯の広がる未開の地域でした。ガリア戦役とはカエサルとローマ軍団による8年に及ぶガリアの征服行です。

このガリア戦役によってスイス、オランダ、ベルギーの他、ドイツの一部がローマ世界に組み込まれ、さらにはドーヴァー海峡を渡りイギリス(グレートブリテン島)までローマの領土が拡大されることになります。

ローマにとってのガリアの平定は、本国の安全保障に直結することになり、ガリアが安定することはガリア人にとってもゲルマン人の脅威がなくなるという大きなメリットになるのでした。そして現代社会にとってもこのガリア戦役は大きな意味がありました。

■敗者の同化

カエサルはじめローマ人による征服とは大抵の場合、相手に対して自治を認め土着の信仰も認められ、土着の神はローマの神々と共にローマの神に列せられる(これによってローマは300万を超える神々を持つ)。征服した相手の国の状況や宗教の性質によって「属州化の最適な方法」は多少変えるにしても、基本路線は「敗者の同化」で、ローマは建国当初からこうして敗者を許し同化することで、国を大きく育ててきた。それは人的資源と領土拡大ということ以外に、その民族がもっている優れた技術や学問、芸術すらも取り込むことを意味しており、最初ならず者の集団だった小国ローマは、こうしてどんどん大きく強力に、そして魅力的な国へと変貌していくのです。

■属州になるということ

ローマの属州民となると、十分の一税という税金が課されます。収入の10%を税金として収めねばならない義務です。ただその代わり「市民権」を持つローマ市民のように兵役の義務はありません。戦いに負けた、征服はされるものの自治や信仰が温存され、ローマ軍が安全を保障する。代わりに税金を納めるとはいえ属州となることは結果として悲観的なことではなかったかもしれません。

また、ローマの属州民となることの大きな恩恵は街の近代化による快適な生活ではなかったかと思います。ローマの属州になることは、街が近代化され文明的な生活がもたらされることを意味しました。ローマ人によって街と街がローマ街道(舗装道路)によってつながり、街には上下水道が整備され、公共建築が建てられ、劇場や闘技場、公共浴場も完備されることになる。今でもヨーロッパの都市に行くと、小さな街であってもそういったローマの施設の遺跡がたくさん残っている。実際、現在のヨーロッパの都市はカエサルによるガリア征服行の時の軍団駐屯地が起源であることが多く、さらにイギリス人はカエサルドーヴァー海峡を渡ってイギリスに上陸した時をイギリスの建国と考えているほどです。

アルプスの向こう側のまだ未開の地だったガリアを征服行をおこなったことでヨーロッパの運命は世界は大きく変わった。カエサルガリア戦役によって現在の華やかで美しいヨーロッパ世界が形作られたといってよいのです。

これからカエサルガリア戦役を辿ります。

 

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カエサル8 はじめての執政官

「執政官(Consul)」とは共和政ローマにおける最高官職。任期は1年、毎年2名の執政官がローマの政治を取り仕切っていました。

B.C.754年、王国ローマが誕生したときに建国の王ロムルスは国の政体を「王、元老院、平民集会」の3つにすることを決めました。ローマは王政から共和政へ、共和政から帝政へと移り変わりますが、政体のトップが「王」「執政官(Consul)」「皇帝」と移り変わっても、元老院と平民集会はそのまま残り、ローマ政治の三角関係は変わらず続いていくのです。この点はローマを建国したロムルスの政治センスを感じないではいられません。

紀元前59年、三頭政治を背景にカエサルは執政官(Consul)となりました。41歳にして初めてローマ政治の頂点に到達するわけです。ただカエサルにとってこの執政官としての1年は別に特別なことはなく、次のステップへの単なる通過点として淡々と、しかし着々と過ぎていったのでした。

カエサルが執政官として行った、主な重要改革は二つ。

一つ目は「アクタ・ディウルナ(Acta Diurna)」という、元老院議会の議事録を即日公表すること。これは地味だけど効果は絶大でした。さっき行われた議会で誰が何を言ったかすぐに公開されてしまうので、元老院議員達は迂闊な発言を控えることになる。

ちなみにこのアクタ・ディウルナは現代の新聞の起源となり、「ディウルナ」という言葉は「ジャーナリズム」の語源になりました。

二つ目は70年前、グラックス兄弟が行おうとして元老院に潰された農地改革。カエサル護民官と市民集会を巧みに活用して、このグラックスの改革を「ユリウス農地法」として成立することに成功ます。平民農民にとっての70年越しの悲願がカエサルによって実現したのでした。

カエサルはその他多方面で活躍し、相方であるもうひとりの執政官の存在感をほぼ打ち消していたと言います。ローマ市民はある1年言い表すのに「〇〇とXXが執政官の年」と二人の執政官の名前で表現したのですが、このB.C.59年は「ユリウスとカエサルの年」と呼ぶほど、カエサルだけが執政官の仕事をした1年となったわけです。

執政官の任期はたった一年。その僅かな期間でできることは限られ、そこでどれだけのことをするかはその政治家の手腕次第。大した業績を残さず任期を終える執政官も多くいたでしょう。しかしローマの政治システムの優れたところは、執政官には次の役目が用意されるところ。執政官まで上り詰めた優秀な人材は、次の年、前執政官( pro -consul)として広大なローマのどこかの属州統治を任される。カエサルは自分の行き先をガリアと決めていました。ガリアとは現在のスイス、フランス、ベルギーといった今なら先進的で洗練されたうっとりするような地域ですが、紀元前1世紀当時は広大な沼地が広がる未開の田舎でした。そんなガリアを任地に選んだのはカエサルのこの先のローマの姿を見据えた選択でした。

カエサルは執政官任期の終わりに、北イタリア以降のガリア、南仏属州、イリリアの統治権、任期5年、4個軍団の総指揮権を元老院に認めさせます。

ガリアの現在の姿を見ればカエサルガリアの地で何を成したかがわかります。

ガリア戦役が始まります。

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