パリから電車で40分。ヴェルノン(Vernon)という駅で降り、そこから更にバスで15分。ノルマンディーの中でもパリに近い場所、セーヌ川沿いにジべルニー(Giverny)という小さな村があります。クロード・モネがここに居を構えたのは1883年のことでした。それ以来86歳でこの世を去るまでの43年間をモネはジベルニーのこの家と庭を拠点に過ごしました。
この「モネの家」は住居とアトリエと二つの庭、花の庭園(ノルマンの囲い庭 / Le clos Normand)と水の庭園(Le jardin d'eau)に分かれています。今日は「花の庭園」についての記憶をたどります。
ジベルニーに移って間もなく、40歳を過ぎたモネは手紙の中でこう書いています。
「私は歓喜に酔っている。ジベルニーは私にとって最高の場所だ!」
1883年にここにきた時、まだ貧乏画家だったころにモネはこのピンクの長細い家を借り受けました。そして広い果樹園だった庭を、モネは自分自身「庭師」として「花の庭」へ作り替えます。裏庭は野菜園に、果樹園の木々を抜いて芝生を植え、花壇を整備して、四季折々の花が咲きほこる「花の庭」へと変貌していきました。
日本通でもあったモネはこの庭に芍薬や百合といった花、桜や椿などの木、フランスでは珍しい日本の植物を取り寄せては所々に植えていき、花の庭はどんどん充実していきます。
モネは大輪の花より小さな花が群れるのを好みました。そんな四季折々の花々を、まるでキャンバスに絵の具をのせて絵を描くように草花を配置しました。
「自分の手で耕し、タネをまき、移植する。庭づくりは私の楽しみであり、誇りだ」とモネは語っています。
モネはまだ貧乏だった頃にジベルニーに移り住み、徐々に名声が高まり絵が売れ出した1890年にこの家を買い取った。そして絵を描くように花木を植えて、それをモチーフに本当に絵を描く。モネの言葉の通り、楽しみであり、誇りであり、そして幸せだったろうな。
モネはジベルニーでもう一つの庭「水の庭園(Le jardin d'eau)」を作ります。これがモネの名声を決定的なものにする礎になるのです。
睡蓮の池。次回は睡蓮の池の話を。
*現在モネの家と庭園はクロード・モネ財団(Fondation Claude Monet)が管理しています。モネの家内部やアトリエも公開されています。印象的だったのはたくさんの浮世絵のコレクションが飾られていたこと。日本の浮世絵がここにあり、印象派の作品に影響を及ぼしていたという事実は、日本人として「とてつもなく」誇らしく思えましたね。