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旅行の記憶と何気ない日常を

モネ小史

モネ(Cloud Monet 1840-1926)の生涯を彼の作品と一緒に辿ってみます。

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*マネによるモネ

 

1840年 パリに誕生

1845年 5歳 ル・アーブルへ移住

食料品商と船具商を経営する父とアマチュア画家の母のもと裕福な暮らしていました。モネは学校の教科書にたくさんのイラストを描いて評判に。その絵というのがいわゆるカリカチュア(戯画)。

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*10代のモネは無数のカリカチュアを描いていました。

 

1858年 17歳:ブーダンとの出会い

そしてモネのカリカチュアはル・アーブルの額縁屋に展示されるようになり、これを偶然見たブーダンはモネの才能に気づいて風景画の制作を進めることになります。ブーダンの勧めで戸外での風景画制作をはじめたモネは「風景画こそ天職」と悟ることになりました。

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*1858 ルメルの眺め / 個人蔵

モネ最初期の風景画。モネに才能を感じたブーダンの指導で描かれた貴重な一枚

 

1859年 19歳:パリへ

絵を本格的に学ぶためアトリエ・シュイスへ。そこでピサロと出会う。またモンマルトルでマネやクールベとも知り合いに。

1860年 20歳:兵役と退役

アルジェリアへ従軍するが貧血症により帰国し、ル・アーブルで過ごす。この時オランダ人画家ヨンキントに出会います。「瞬間を捉えるために驚くべきスピードで絵筆を動かしていく」ヨンキントの制作スタイルがのちのモネに大きな影響を与えることになるのでした。

 

1862年 22歳:再びパリへ

シャルル・グレールのアトリエに入り、ルノワールシスレー、バジールと出会い、フォンテーヌブローでの戸外制作を行う。

 

1865年 25歳:サロン入選

オンフルールとサン・タドレスを描いた風景画でサロンに初入選。

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*オンフルールのセーヌ河口 1865 サロン入選

 

1866年 26歳:サロン再入選するも

恋人カミーユをモデルにした「緑衣の女」で再びサロンに入選。しかしサロンの入選は「古典的な絵」が評価されたわけで、モネの志す絵ではありませんでした。以降、何度かサロンに出展するも落選が続きます。

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*緑衣の女 1866 サロン入選

 

1867年 27歳:長男誕生

カミーユとの間に、長男ジャン誕生。モネはこのころ父の仕事の拠点であるサン・タドレスで過ごす。下の絵を描いた頃、生まれたばかりの息子に会いにパリへ行くのだけど、お金がないためにカミーユとジャンのいるパリにとどまることができなかった。この頃の1860年代のモネは極貧状態だった。

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*1867 サン・タドレスの通り/ クラーク・アート・インスティテュート

 

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*1867 草の上の昼食 / オルセー美術館

1870年 30歳:結婚と逃避

ようやく正式にカミーユとの結婚が許される。この年、普仏戦争が勃発。モネは徴兵を避けるため単身イギリス、オランダへ。ロンドンでコンスタブルやターナーに触れる。

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*1871 テムズ川と国会議事堂 / ロンドン・ナショナルギャラリー

1871年 31歳:アルジャントゥイユへ移住

家族で移住したアルジャントゥイユで充実した日々を過ごします。セーヌ川を抱く自然豊かな土地はルノワール、マネ、シスレーピサロといった仲間も惹きつけ、ともに制作したアルジャントゥイユでの日々は印象派誕生に向けてとても重要な時期となりました。

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*1872 アルジャントゥイユのレガッタ/ オルセー美術館

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*1872 印象、日の出/ マルモッタン美術館

 

1874年 34歳:第1回印象派展開催

サロンに落選した「新しい絵画」を集めた展覧会「落選展」を初めてサロンの外で開く。この時、モネが出展したル・アーブルの港を描いた風景画「印象、日の出」に批判が集中、皮肉を込めて「印象派の展覧会」と批評される。ところがこの「印象派」という表現は意外に人々にも当の画家たちにも受け入れられることになります。以降1886年第8回まで印象派の展覧会は続きました。

モネはこのころアルジャントゥイユの風景を多く残しました。

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*1875 雪のアルジャントゥイユ / 国立西洋美術館

幸せの絵も多く描きました。

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*1875 庭のカミーユ・モネと子供 / ボストン美術館

1879年 39歳:カミーユ他界

しかしアルジャントゥイュでの幸せは長く続かず、病弱だった最愛の妻カミーユがこの世を去ります。

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*1879 カミーユの死の床 / 左 オルセー美術館

このころ長閑だったアルジャントゥイユも都市化がすすみ、以前のような風景はなくなってしまった。印象派も画家それぞれの方向性がずれていき徐々に分裂へと進んでいきました。

モネもアルジャントゥイユを離れ、極貧状態を抜けるため10年ぶりにサロンに出展し入選してしまう。このことが印象派の解体を決定的にしたともいわれます。

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*ラヴァクール 1880 サロン入選

 

1883年 43歳: ジベルニーへ移住

 ジベルニーでモネは、光と空気の刻々と変化していく移ろいを作品に残すようになります。モネの「連作」が誕生します。

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*1884 ジベルニーの積み藁 / 大原美術館

ジベルニーに移ったばかりの頃に描かれた「積み藁」。これが5年後に連作として再び描かれます。

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*1889 ジベルニーの積み藁、夕日 / 埼玉県立近代美術館

 

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*1885 エトルタの断崖 / Clark Art Institute

 

モネはジベルニーで再び「日傘を指す女」を描きます。顔のわからない女性は亡くなったカミーユを思いながら描いたのでしょう。

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*1866 日傘をさす女/ オルセー美術館

 

1891年 51歳:連作「積み藁」

15点の様々な積み藁は絶賛され、モネの連作は美術界にも一般の人々にも広く受け入れられた。モネの人生にとっての大きなターニングポイントとなった。

 

1892年 52歳:ルーアン大聖堂制作

ジベルニーのそば、ルーアンの大聖堂前に部屋を借り、そこで刻々と変化していく大聖堂のファサードをえがきつづける。この年、モネはアリスと再婚する。アリスは病弱だったカミーユの看護をしたり、カミーユが亡くなったあとにモネの子供達の世話をするなど献身的にモネの家族に尽くしてくれた人物でした。

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*1892 ルーアン大聖堂 / オルセー美術館

1893年 53歳:睡蓮の池

 ジベルニーの庭を拡張して、池を中心にした「水の庭」をつくる。睡蓮の池が誕生します。

 

1895年 55歳:連作「ルーアン大聖堂」発表

 

1898年 58歳:「偉大な国民的画家」「今世紀最も重要な画家」に

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1899年-1901年 ロンドン滞在

 英語を学ぶ息子を訪ねてロンドンを4年連続で訪ねる。このときチャリングクロス橋やウォータールー橋の連作を制作しました。 

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*1901 チャリングクロス橋とテムズ

 

モネはジベルニーの水の庭に日本の草木を植え、日本の太鼓橋をかけ、その風景を描きこんでいきました。

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*1899 睡蓮の池と日本の橋 / プリンストン大学美術館

 

1901年 61歳:睡蓮の池を拡大 

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*1907 睡蓮 / 個人所蔵

 

 

1909年 69歳: 睡蓮の連作発表

「私の池は魔法にかかったようだ」と溢れ出すようなモチーフによってたくさんの傑作が生まれ、その48点の睡蓮の連作による個展を開き、大成功となる。この時、ひとつひとつの睡蓮がそれぞれ買われて別々の場所に散ってしまうことを残念がる人々に、モネは大壁画の構想を語ったと言います。しかしこの後、モネはしばらくの間、絵筆を握らなくなります。

 

1911年 71歳:アリス他界

モネの絵の最大の理解者であったアリスの死と、白内障による視力の衰え、体調を崩したりとモネは1913年いっぱいまで絵筆を握ることなく過ごしたと言います。

 

1914年 74歳:大画面の睡蓮へ

自宅の地下室で見つけた自分の睡蓮の絵。モネの制作意欲に再び火が灯ります。「白内障でも制作ができる大きな絵」のための大アトリエを庭に作ります。

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*1918 日本の橋 / マルモッタン美術館

 

1922年 81歳:国家への大壁画

睡蓮の大壁画を国家へ寄贈することを正式に契約。2年後の完成を約束する。

 

1923年 82歳:白内障の手術 

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 *1924 バラの庭から見た家 / マルモッタン美術館

 

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* 1924  日本の橋 /マルモッタン美術館

 1926年 86歳:睡蓮の感性と他界

2度の完成延期の申し入れのあと、病気の再発や発作に苦しみながら睡蓮の大壁画と、水の庭の完成を目指す。

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*1918-1926 睡蓮の大壁画 / オランジェリー美術館

 

12月5日モネはジベルニーの自宅で亡くなりました。

その2週間ほど前にモネはこんなことを語っていたそうです。

「春になれば全て見ることができるよ。もっとも私はここにはいないだろうけど」

 

モネが息を引き取って半年後の1927年5月、「睡蓮の大壁画」はオランジェリーに展示されました。

 

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