フランスには二人のラトゥールという画家がいます。一人はジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour 1593-1653)。光と影を見事に描き出す17世期に活躍した画家で、その作風から「夜の画家」と呼ばれます。僕の父は「大工の聖ヨセフ」という絵が好きでした。多くの人がラトゥールと聞いて思い浮かべるのはこちらのラトゥールではないかと思います。
今回ここで書くのはもう一人のラトゥール。19世紀に「花の画家」として活躍した、アンリ・ファンタン=ラトゥール(Henri Fantin-Latour 1836-1904)。
こちらのラトゥールは19世紀にサロンを中心に活動するいわゆる「サロン画家」で、生涯古典的な作風を貫いた人。イギリスで学んだ静物画(特に花の絵)で頭角を現し、「花の画家」として高い評価を受けていました。その他にも肖像画、集団肖像画といった分野で活躍した画家です。もともとティツィアーノ、ヴェロネーゼといったヴェネツィア派やレンブラントやフェルメールなどのフランドル・ネーデルランドといった北方画家の作品から多くを学んでいたといい、同国の画家ではコローやドラクロワに傾倒していたというラトゥールの、オルセーで見た絵からは、確かにそういった人たちの姿が見え隠れします。
僕がラトゥールに興味を持ったのは、バリバリのサロン画家でありながら印象派の画家たちととても深く交流していた、というところ。ラトゥールの作品のいくつかには、モデルとしてマネやモネ、ルノワールといった印象派の画家たちが登場したりするという、ちょっと不自然な関係からでした。サロン画家のラトゥールが、その対極にある印象派となぜ?
ラトゥールはある時期マネと知り合い、それをきっかけにマネと共に伝統に囚われない新しい絵画の世界を作ろうとする人々と親しくなります。のちに印象派と呼ばれるこの人たちとカフェに入り浸り、絵画論を交わし、ときには一緒に制作する。そんな深い関わりがラトゥールと印象派の画家たちの間にはありました。
ラトゥールは印象派の画家たちの「新しい世界」への志に共感し惹かれたと言います。彼らと行動を共にしながら、新しい絵画について長い時間語り合い過ごします。でもラトゥールは最後まで印象派の画風は認めなかったし、模倣もしなかった。
実はモネやルノワールも若い頃、そして印象派立ち上げた後にもサロンに出品、入選したことがある。モネやルノワールは印象派となる前にはサロンで認められるべく、そして印象派として活動してもなかなか世間に認めらない時期は、生活のためにサロン入選を狙って作品を出品したことがあった。サロンで入選するということは「経済的な安定」を意味しているので、生活に苦しくなってやむなくそういう行動をとるのだけど、これが志として印象派解体につながる亀裂を生むことになるわけです。
ラトゥールには印象派と交わり、でも受け入れなかった理由が2つあったと思う。
ひとつはサロンで認められ、高い評価による生活の安定を捨てる勇気がなかった。
もうひとつは、ラトゥール自身が印象派のフィールドでは自分が輝けないことを感じていたのではないかと。ラトゥールは自分のルーツ(ヴェネツィア派や北方絵画)から成り立つ自分の画風を、当時の印象派の画家たちを超えるような印象的表現に発展させることができないと思っていたのではないか。
光の移ろいを描くモネ、人の幸せのオーラを描きこむルノワール、ラトゥールは早くからその表現の深さに気づいて、印象派的な表現ではモネ、ルノワールには自分の力が到底及ばないことをわかっていた。だから印象派に強く共感しながらもそこに入ることをしなかった(できなかった)のではないだろうか。
本当のところは誰にもわからない。
でも「印象派のラトゥール」にならなかったから、今オルセーにラトゥールの作品があるのかもしれない。
オルセー閉館間際に、誰もいないホールで最後に見たラトゥールは、何か寂しげだった。描かれた人々は皆別々の方向を見ている。印象派と同じ方向を見ることができなかった自身の心を描きこんでいるような、そんな風にも見えてしまいました。