86年の生涯で2000点もの絵画を製作したモネ(Cloude Monet 1840-1926)。
印象派の歴史の中で、その名前の由来となる絵「印象、日の出(1872)」を描き、最後まで生き残り絵を描き続けたモネは印象派そのもの。
ここではオルセーにあるモネの作品を通して、モネの生涯を辿ります。
もともとモネはサロンに入選するような古典的な絵を描きいていました。実際に1865年にオンフルールとサン・タドレスを描いた風景画でサロンに初入選。当時画家としてすでに名声を博していました。
次の年のサロンに向けては1863年マネの「草の上の昼食」が歴史的落選したことを受けて、偉大な歴史画に対抗するため、より日常的な情景として同じモチーフ「草の上の昼食」を描いた。しかしこの絵は未完のまま終わらせ、後に妻となる「草の上の昼食」でもモデルを務めたカミーユの肖像を描いて1866年のサロンに入選するのでした。
その後1869年、1870年とサロンに連続で落選すると、モネはカミーユと結婚し活動の拠点をパリ郊外のアルジャントゥイユに移します。
アルジャントゥイユのレガッタ(1872)
モネは1871-1878年を自然と素朴な風景が残るアルジャントゥイユで過ごします。モネはここでセーヌ川とセーヌ川に映る豊かな色彩を描きました。この頃、ルノワール、シスレー、ピサロ、マネといった画家たちがアルジャントゥイユに集まりモネと一緒にたくさんの風景がを描いたのでした。このころのアルジャントゥイユはフランス風景画の新しい探究の場所となり、ここアルジャントゥイユで印象派の結束が強まります。
アルジャントゥイユで描かれた中で僕がもっとも好きなのがこの「ひなげし(1873)」
1873年に印象派の画家たちがサロンとは独立した展覧会を開くため会社を設立、1874年に最初の展示会を開催します。しかしその展覧会の世間の評判は酷いもので、特にモネが出展した「印象、日の出(ロンドンナショナルギャラリー所蔵)」に批判が集中します。人々はこの展覧会を皮肉を込めて「印象派の展覧会」とこぞって批判しました。
しかしこの「印象派」という命名は実は意外にも人々にも、画家たちにも受け入れられ徐々に世間に認められていくことになります。
こうして「印象派展」は1876年以降続き1886年第8回まで開催されることになるのでした。
やがてアルジャントゥイユは都市化が進んでしまい以前のような風景画を描ける場所ではなくなってしまった。モネは題材を求めて大改造の最中のパリに戻ります。
その頃描いたのが「サン・ラザール駅(1877)
*オルセー美術館公式図録より
この頃最愛の妻カミーユを病気で失い、好きだったアルジャントゥイユは変わってしまい、印象派も分解してしまう。モネはそんなアルジャントゥイユを去り、拠点をヴェトゥイユに移すのでした。
下の写真左は「死の床のカミーユ(1879)」。亡き妻を描いた悲しげな一枚。
印象派の画家たちの結束は個々の主張がぶつかりあえなく崩壊。モネはこのころ新しい絵画へと進むがその手法をルノワールは嫌い、ここでも決裂。さらにモネが経済的な苦しさから1880年に10年ぶりにサロンに出品したことでグループとしての印象派の解体は決定的になりました。印象派展は1886年の第8回まで続きますが、印象派グループそのものはすでにこの時点で終わりを迎えていました。
1883年モネはジヴェルニーに移り住み、1926年に亡くなるまでを過ごします。
モネは新しい手法、季節・天候・時間によって変わる光と空気で変わってゆくモチーフを連作として生み出すことになります。
日傘をさす女
「散歩、日傘をさす女」は1875年に妻カミーユをモデルに描かれたもの(ワシントン、ナショナルギャラリー蔵)。
オルセーにある「日傘をさす女」は「戸外習作」とも言われ、1886年に右向きの女性と左向きの女性がほぼ同時期に描かれたと言われています。
この作品は僕のとても好きな絵のひとつ(ふたつ)。
沸き立つ雲、高台に日傘をさす女性。ここに流れる空気には「幸せ」とか「愛情」が伝わってくるようで、見ていてとても暖かい気持ちになる。上の「散歩、日傘をさす女」はカミーユの表情がわかります。でもこの二つの作品には表情はありません。モネは亡くなったカミーユを思いながら描いたように思えてなりません。
1888年モネ50歳を前にして、転機が訪れます。
モネはジヴェルニーの素朴な風景を連作として製作。
「積み藁」です。モネはこの積み藁の連作の製作を通じて、友人への手紙でこんなことを記しています。
「私は異なる印象についての連作に精魂込めて打ち込んでいます。
私が探し求めているもの、「瞬間性」は何よりもまず周囲を包むもの、
至る所に現れる同一の光、これを描くことは大変な努力が不可欠だとわかってきました」
1891年に15点の積み藁の連作を発表すると、大きな反響となりました。
当時の芸術家ジャーナル誌は「モネは純真で、誠実で、感動的で、詩情に溢れた自然と万物を描く画家」とモネと「積み藁」を絶賛、多くの誌面、世間がモネを受け入れたのでした。
1895年 ルーアン大聖堂の連作を発表。
この絵はルーアン大聖堂の前に部屋を借り、その窓から見た聖堂のいろいろな姿を描いた連作。同じモチーフをさまざまな時間、季節に描いた連作は並んで展示されると迫力が増します。
1898年には「偉大な国民的画家」、「今世紀最も重要な画家」とされる。
1900年60歳になったフランスの国民的画家は、自宅の裏庭を描くことに専念することになります。
「目の楽しみ、絵に適したモチーフの風景をつくるため」とジヴェルニーの自宅の裏庭の池を拡張するために、セーヌの支流の流れを変えて工事することを役所に申請します。
ジヴェルニーの池は拡張され、日本風の橋がかけられ、睡蓮で満たされたのでした。
この頃の睡蓮は光輝きに満ちていた。 僕はジヴェルニーへ出かけて、睡蓮の池を眺めてきました。このときファインダーを通して見た睡蓮の池を見て、モネがこのモチーフにこだわり続けた理由がよくわかりました。この話はいつかまた。
モネは1912年頃から白内障を患い、視力が急激に低下します。この後に描かれた睡蓮の池はどこかとても緊張しているのです。
またこのころ、かつてともに描き競った画家仲間はほとんどが亡くなってしまい、印象派の画家として最後の一人になっていました。
そんな中、1920年にモネはフランス国家に寄贈する巨大な睡蓮の連作に取り掛かります。製作は白内障の手術をしながら死の間際まで続き、2つの連作、それぞれつなげると40m, 50mにもなる睡蓮が完成したのでした。
モネが亡くなったのは1926年、オランジェリー美術館が開館したのが1927年。モネ自身はあの睡蓮の間を見ることができなかったのです。
モネはサロンで入選できる力を持ちながら、印象派という新しい世界を切り開いた。世間の酷評を受けながらその意思は変えずにひたすら自分の理想を表現し続けたわけです。
そして幸運にも「積み藁」の連作をきっかけに「国民的画家」と呼ばれるまでになり、最後はフランス国家に自らの「睡蓮」を寄贈する。その絵は時代を経て世界の人々に受け入れられている。
印象派の道を切り開いたモネ。なんと言われようが、やはりモネの絵というのは僕の心の何かに響いてくる。
僕にとってモネの絵は、本来絵というのはこうあるべき、と思わせる。サロンが評価した写実的な絵はほんの一瞬だけを収めるいわば写真のようなもの。でも印象派の、モネの絵は瞬間でありながら、その前後の空気や光の揺らぎを伝える、唯一無二の手法で、よりその場にいることを錯覚させるようなものなのかもしれない。
実は印象派の、モネの絵に引き寄せられるのはそんな、時空に引き入れてくれる魅力というか力によるものではないか。と最近思い始めた。