オルセー美術館(Muse d'Orsey)
パリ万博に合わせて1900年に開業したオルセー駅。駅として機能したのはわずか30年ほどでした。それから約半世紀後の1986年にその駅舎は改装され、オルセー駅はオルセー美術館として生まれ変わったのでした。
フランス美術の黄金時代とよばれる19世紀後半から20世紀初めの作品を一堂に集める殿堂、それがオルセー美術館なのです。
高いガラスの天井から光が降り注ぐ広大な中央ホール、大きな時計、エントランスなど、あちらこちらに1900年当時の駅舎の名残が感じられます。細かな部分の装飾も見事で建物自体も美術品として楽しめます。ヨーロッパの駅はそれ自体が芸術(建築)作品であるからこそ、こんな風に美術館に改装してもなんの違和感もないのでしょう。
■アカデミズム(新古典主義とロマン派の折衷)の画家
シャッセリオー(1819-1856)、クーテュール(1815-1879)、カバネル(1823-1889)、モロー(1826-1898)、ジェローム(1824-1904)、ブーグロー(1825-1905)、。。。といった画家たち。
19世紀当時のフランス芸術界を仕切っていた芸術アカデミーは古代ローマ美術を手本として、神話や史実をリアルに描くことを良しとしていました。なのでアカデミズム絵画は古代ローマや美しいヴィーナスや女神が登場する神話、そして歴史の舞台を題材にした絵画が多いのです。
オルセーには同時にアカデミズムの源流となる新古典主義(アングル(1780-1867)など)とロマン派(ドラクロワ(1798-1863)など)の作品も一部収蔵されています。
*カバネル「ヴィーナスの誕生(1863)」・・オルセー美術館公式図録より
下の写真の奥にあるのはクーテュールの「退廃期のローマ人たち」
19世紀当時、芸術アカデミーは主催する展覧会「サロン」への選出の基準として常に古代ローマ美術との対比で価値判断していた。この伝統から外れるものは認められず、世間の評価を得ることは中々難しい時期だったのです。
しかし、そのサロンの価値観に納得できない当時の異端者であり革新的な考えをもった芸術家たちが登場していく。この異端者たちが、サロンの古い価値観を壊し、新しい世界、フランス美術の黄金期を作り上げることになるのでした。
この後はそんな異端者たちが登場します。
コロー(1796-1875)、ミレー(1814-1875)、ドービニー(1819-1877)、クールベ(1819-1877)
アカデミーの伝統は室内での製作がほとんど、題材となるのは古代ローマの史実や神話などの神々や英雄でした。コローやミレーといった画家たちが題材としたのは、もっと身近な名も無い人々のありのままの姿でした。人々の生活の一場面、自然の美しい風景をその場に足を運び作品を完成させていきました。アカデミーの考え方とはまるで反対の作品、でもとても尊い作品が多く生まれました。
*ミレーの「晩鐘(1859)」・・オルセー美術館公式図録より
■印象主義の画家たち
ブータン(1824-1898)、マネ(1832-1883)、ピサロ(1830-1903)、ドガ(1834-1917)、モネ(1840-1926)、ルノワール(1841-1919)、シスレー(1839-1899)、カイユボット(1848-1894)、クールベ(1819-1877)、ラトゥール(1836-1904)など
印象主義・前夜
下は「近代絵画の父」とよばれ、後輩である印象派の画家たちに大きな影響を与えたのがマネ。
仲間とともにサロンに作品を送っては落選されるということを繰り返していた。1863年にサロンに送って後世に「歴史的な落選」と言われたのがこの「草の上の昼食」。
この時この絵とともに落選とされたピサロやカザンなど多くの仲間の作品とともに「落選者展」と銘打った刺激的な展覧会がサロンのとなりで開催。これをナポレオン3世が「人々が自分で判断できるように」とこの落選者展を後押ししました。その結果、本家サロンの入選者展より、落選者展のほうに大勢の人々が訪れたのでした。
画家たちのリーダー的存在だったマネのこの絵「草の上の昼食」は、それまでの異端が主流となるきっかけを作った重要な一枚なのです。
こちらは同じくマネの「バルコニー」。日本に来たこともあります。
印象派の誕生
思うままの主題を探して戸外で描くこと。光の移ろいを、目に映る印象を描くこと。
これが印象派と呼ばれる画家たちのスタイル。モネ、ブーダン、クールベといった画家たちが、戸外に繰り出したくさんの絵を描き始めたのでした。
1863年以来、再度の落選展開催を求めた画家たちでしたが、許されることがなかったため、1873年にモネ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、ドガなどの画家たちが会社を設立、自分たちで独自の展覧会を開くことを計画し、1874年に最初の独立した展示会を開催します。
しかしその時の世間の評判は酷いもので、特にモネが出典した「印象、日の出(ロンドンナショナルギャラリー所蔵)」に批判が集中、この展覧会を「印象派の展覧会」と揶揄する記事をこぞって掲載して批判しました。しかしこの「印象派」という命名は意外にも人々にも、画家たちにも受け入れられ徐々に世間に認められていくことになります。「印象派展」は1876年以降毎年開催されることになるのでした。
モネ(1840-1926)
やはりモネは印象派を代表する画家であり、僕の好きな画家の上位に常に位置します。オルセーの中で印象派のギャラリーは最上階の細長い空間にあります。モネの絵は光と空気を描いていて
これは「日傘をさす女」の連作。1886年ころの作品。
モネの作品の中でもっとも好きなのがこの2枚。
1990年代はこんな感じの展示だったのが、ずいぶんと洗練されました。展示室の様子は変わっても絵そのものの輝きは変わりません。
こちらは「ルーアン大聖堂」の連作。大聖堂の前に部屋を借り、その部屋の窓から見える様々な時間と天気、光の具合で変化する大聖堂を描いたものです。僕はこの絵に惹かれて、ルーアンへ足を運びました。その時のことはまた今度。
ルノワール(1841-1919)
モネとともに印象派を代表する画家として活躍。僕の中でもモネと同じく好きな画家の上位に常駐。モネが光と空気を描いた画家で、ルノワールは人々の幸せのオーラを描いた画家と僕は考えている。この絵は「ムーラン・ド・ラ・ギャレット(1876)」
ドガ(1834-1917)
もともと印象派の画家として、戸外での製作をしていたドガでしたが、普仏戦争に従軍した時に目を痛め、戸外製作ができなくなってしまったのでした。ドガは銀行家の息子として裕福な家庭に生まれたドガは、オペラ座に通い踊り子たちの姿に魅せられたのでした。
室内ではあるけれど、踊り子たちの一瞬の光を捉える作風は印象派そのもの。この踊り子たちを主題とすることで、ドガの存在感は印象派の中でも特別なものになっているように思います。
これはドガが唯一製作した彫刻「14歳の小さな踊り子」
セザンヌ(1839-1906)、ゴッホ(1853-1890)、ゴーギャン(1848-1903)、ロートレック(1864-1901)といった画家たちがこの後期印象派というグループに分類される。「後期印象派」という命名が正しいのか、いまだに疑問が残るけど、確かにこの人たちは印象派から大きな影響をうけて自分たちのスタイルを確立した。だから後期印象派というらしいのだけど、作品自体は印象派とは別世界。
セザンヌ(1839-1906)
こちらはセザンヌ。オルセーには約30点ほどのセザンヌが展示されています。
セザンヌは故郷の南仏からパリに来た当初はロマン主義の作風だったのだけど、モネ、ルノワールと行動をともにして印象派と行動をともにします。でもその後さらに自由に描くことを貫くことでセザンヌの画風へと進化していきました。なのでセザンヌは後期印象派に分類されるのです。
生前、セザンヌの作品はあまり認められなかったのだけど、その後のピカソ、マティスといった20世紀を彩る画家たちに大きな影響を与えたと言われています。
ゴッホ(1853-1890)
後期印象派の中で、印象派を名乗れそうなゴッホ。ゴッホは目に見える景色をゴッホの精神のフィルターをとおしてその瞬間を絵画に表現した。一味違った印象派の画家といえます。
パリで2年間、仲間の画家たちと知り合い交流を深め、その後理想をもとめて南仏プロバンスへ旅立った。オルセーにはゴッホのオランダ時代の作品から、プロバンス時代、夢破れて精神を病んでたどり着いたオーヴェル時代の絵まで多数収蔵。
下の絵は「オーヴェルの教会」
僕はこの絵を見た後、この景色を見るために、オーヴェル・シュル・オワースの村まで出かけたのでした。
印象派の絵がある同じ階に、大きな時計の裏側には雰囲気の良いカフェがあります。
大時計の向こうに、モンマルトルの丘が見えます。
白亜のサクレクール寺院の姿を見ることができるのです。偶然みつけたのだけどこの場所からモンマルトルが見えるというのはとても印象的で、象徴的でした。
オルセーの代名詞「印象派の殿堂」。19世紀フランス芸術の大きな変革、それが印象派の誕生でした。そして印象派の誕生は古い伝統的なフランスそしてパリが、新しい時代へ近代化へ動きだした合図だったのかもしれません。それはイタリアで起きたルネサンスと同じような、人々の新たな感性、可能性への出発点だったと僕は思うのです。