ドゥオモ広場の写真を見てネオンギラギラの一角のあるこの広場がどうにも好きになれなかった。なんかヘンテコな形をしたゴシックの王道とは違う大聖堂もどうなのか?まだミラノを訪れる前、これが僕のドゥオモと広場に対する印象でした。
でも、実際にミラノに来てドゥオモ広場に入ると印象が一転します。
確かにイタリアの他の街の華やかさと比べると、ごちゃごちゃして見栄えは悪い。でも広場の中に足を踏み入れてみると、これが「不思議な居心地の良さ」に驚くことになります。
これは僕が日本人で、統制の取れない看板だらけのごちゃごちゃした街で生きてきたからなのか、と思っていたのだけど、どうもミラノの人も同じように感じているらしい。
現地で買ったミラノの現地ガイド(イタリア人が書いた、イタリア語をそのまま日本語にしたかなり無理のある和訳)に、こう綴られています(原文)。
「はっきり言ってドゥオモ広場は素晴らしいとは言えない、様式の一貫性という点からも、形式の威信や美しさという点からも。イタリアによくあるような<絵画的>効果があるとも言えない。しかし堂々としている他に、<恐ろしく>親しみやすい広場であり、神様だけがそのわけをご存知だ!」
最後の括りはイタリア人らしく大雑把にまとめているけど、僕の感じた心地良さは現地の人も同じなのだというのがとても不思議だった。
僕は、その不完全さのおかげで「重厚ながら肩肘はる必要のない」空気がそこにあって心地良さとして感じるのかな、と分析している。まあ神様だけがご存知のようですので、勝手なことは言えません。
ちょっとごちゃごちゃしているこの広場も、夜には別の魅力が現れます。
夜の帷が降りてきてV.エマヌエレ2世の像とその後ろの噴水、広場を囲む「歴史的な」建物はライトアップされ、ごちゃごちゃしたものは闇に隠される。でも電飾はギラギラのまま。
街灯の下に腰掛け、ドゥオモをスケッチ。
ドゥオモを眺めながらスケッチしていると、しばらくして上から何かが降ってきた。
頭に軽い衝撃と石畳になにがが落ちる音。
広場にはたくさんの鳩がいます。その鳩たちの一羽の糞が頭を直撃したのでした。大半は頭でバウンドして広場に落ちたようで被害はきわめて小さくすみました。僕はそのときこんなことを考えた。
「直撃でこんなに被害が少ないとは、なかなか良くできている」、
「見事な正確さ」と鳩に関心したり、
「運(ウン)が付いた」とこの先の旅が楽しみになったり。
そんなハプニングを経て、メモ帳に描いたのがこのスケッチ(できはともかく)。
夜のドゥオモの美しいことといったらない。
絵を描いた後、広場をぐるぐる歩き回り、ライトアップされたドゥオモをいろいろな角度から眺めました。ファサードの美しさもさることながら、中央塔の黄金の聖母マリア像が夜空に浮き立つように神々しく演出されています。
そしてピザ屋でピザを仕入れ(これがまたシンプルで美味しかった)、広場のさっきのとは違う、また鳩に爆撃されるかもしれない街灯の下に腰掛け夕食をとりました。
淡く光るドゥオモを眺めながら、一日を思い返しながら時間を過ごしつつ。この空間にいると、場違いに思えた電飾看板の一角もそれだけで見れば「まあいいじゃないか」と思えてしまう。
それくらい夜のドゥオモ広場は心が和んだ。この理由は「神様だけがご存知だ」。
夜9時すぎ、ドゥオモ広場は人がひく気配はなくにぎわっている。この日はこのあと後ろ髪引かれる思いで広場を離れ、ミラノ中央駅から夜行列車で次の街へ出発したのでした。