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旅行の記憶と何気ない日常を

古代ローマ小話 人質の話

ローマは周辺諸国との戦争に勝利すると、敗者である国や部族から人質(ラテン語 obses)をとってきました。人質というのは奴隷と違い、国のトップ、有力者の子息である必要があります。一般的な意味合いとしては敗者の有力者の子供達を勝者の地に置くことで、敗者となった国が2度と謀反を起こさないようにする予防の意味合いがある。

「人質」という文字に対しての僕の勝手なイメージは、自由のない軟禁状態で、常に監視下に置かれる窮屈な生活を思い浮かべます。子供の頃、テレビで見たいわゆる「人質」は手足をロープで縛られ口にガムテープ、ろくに食事も与えられず暗い部屋に監禁される。場合によっては常に銃口むけられる。。。。

古代ローマ流の人質とは、いかなるものか。

ガリア戦役の最中、カエサルは多くの部族と交渉して講和を結んだり、戦闘で勝利して恭順を誓わせるなどしてたくさんの部族をローマの傘下へ組み入れました。その度にガリアの有力者の子息を人質として首都ローマへ送ります。

国が戦いに負け、ローマの人質となって故郷を去るガリアの若者たちの心中は悲壮感、あるいは絶望に満たされたことでしょう。

ローマの人質となったガリアの若者達の運命は。。。。。首都ローマの有力者の家に預けられました。今で言うホームステイ。ローマの一流家庭で、その家族と共に生活をして、ローマの教育を受け、文化文明を体験し学ぶのです。

ローマの街での上流生活は辺境の田舎で過ごしていたガリアの若者には相当刺激的だったと思います。自分だったら毎日楽しくて仕方なかっただろうな、と想像するわけです。

ローマの家庭ではその家族と共に過ごし、ローマ流の文明的な生活を体験します。有力者の家庭であれば、上流社会との交流も頻繁に行われたでしょうし、そこでの見聞は、将来ガリアに戻ったとき、部族を率いる中枢として十分過ぎるほどの下地となったことでしょう。

ローマ有力者の家庭であれば、教育も一流。ギリシア人の家庭教師が、あるいはギリシアの一流大学で学んだ優秀な人材が家庭教師として一流の教育を施していた。ガリアの若者はローマでギリシアの当時一流の学問を学ぶことができた。そしてアテネロードス島への留学もあったでしょう。

現代アテネのアカデミー

 

当時すでに地中海を覆う大国だったローマの首都は美しい建物やインフラも整備された先進都市。都市とはなんたるかを学んだでしょうし、単純にいわゆる都会での生活も謳歌したんだと思います。

こんな風にしてローマで成長したガリアの若者は、やがて故郷に帰って、その学び体験したことを故郷のために発揮します。これによってガリアは精神的、政治的にローマとの絆を深めることになります。ガリアはローマにとってより信頼できる属州となり、双方にとってより高度な安全保障が実現する。

そしてかつて未開の地だったガリアの街は文明化し、美しい建物で満たされて栄えていきます。

ローマが滅んだ後、ある時期は衰退もあったけど、14世紀のルネサンスで再び古代ローマが見直され、もてはやされ、古代ギリシア・ローマの様式が模倣されて街は洗練し、人間の感性に直接訴える芸術が街に溢れ、やがて現在見られるヨーロッパの珠玉の街へと変貌していくのです。

戦いに負け、ローマの人質となって故郷を去るガリアの若者たち、しかしローマに到着して、ガリアの若者を待っていたローマでの生活は、ガリアの若者の心を躍らせたでしょう。そして一流の知識と経験を携えてガリアに凱旋し、ローマの期待と部族の期待に応え活躍する。ローマの人質の運命とはこう言うものでした。

 

僕が訪れたヨーロッパの美しい街々では、ほぼ全てと言って良いほど古代ローマの痕跡を見つけることができました。ローマの遺跡と「カエサル CAESAR」の文字。

これは紀元前1世紀に繰り広げたカエサルの冒険(ガリア戦役)と、その後カエサルのグランドデザインに沿って帝国を発展させていった、歴代皇帝と大勢のローマ人、そして人質としてローマに送られ、ローマで学んだガリアの若者たちが残したものだ。

僕はその痕跡に惹かれてヨーロッパ各地に赴いた。知れば知るほど益々知りたくなる。僕にとってのローマとはそう言うもの。

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