cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

カエサル16 ガリア戦役 暗転

紀元前54年の冬

例年戦闘のできない冬の時期、軍団は一箇所の冬営地に集まりガリアの地で越冬します。その間カエサル自身は南仏属州あたりの、本国との境目付近にもどって首都ローマに対して様々な指示をだしていたのでした。ところがB.C.54年の冬に差し掛かったころ、カエサルは軍団の冬営地を離れられずにいました。この年のガリアは小麦が不作。その影響は冬営するローマ軍団の兵糧確保に影響を及ぼします。ローマ軍は冬営地を決める際、一番問題の起きそうな場所を選択して全軍集中して冬営するのが慣わしでしたが、この年はガリアの各地に軍団を八箇所に分散させての冬営とならざるをえませんでした。戦力が分散して兵糧もままならないローマ軍団に対して、これを反撃の機会とガリア人は考えた。小麦の不作で人心荒廃する中、戦いに負けて一旦は恭順を示したものの、やはり自由を取り戻したいガリア人。そしてローマを面白く思わないゲルマン人ガリアのその気持ちを後押しする。こんな構図がこの当時の北東ガリアにはありました。

ローマ軍十五個大体全滅

今で言えばベルギー北部からオランダにかけて居住していた、それまでローマとは友好的だったエブロネス族がローマの使者を捉え反ローマに勃った。

この時冬営中のローマ軍のうち不意を突かれた15大隊9千人が全滅し、カエサルの副官のサビヌスとコッタの二人も戦死しました。ベルガエ人の2つの部族6万もこれに呼応し別のローマ軍冬営地に攻め込みます。このことを別の冬営地(アミアン)で知ったカエサルは、急ぎ援軍指揮して戦地に赴き、ベルガエ人の反乱を鎮圧しました。ガリア侵攻開始して六年、連戦連勝のローマ軍団にとって、有能な副官と9千もの兵士を失ったことは、その兵士の数以上の大きな打撃となった。

ゲルマン問題

結局のところ北西ガリアの問題はゲルマン問題であることを正確に把握していたカエサルは、ゲルマン人に釘を刺すために再びライン河に橋をかけゲルマンの地へ侵攻するのです。

B.C.53年に入りルテティアの街でガリアの全部族長を集めて会議を開き、自ら議長役を務めたカエサルは各部族の忠誠を確認します。背後となるガリア人を抑えてから、ライン河に再び橋をかけゲルマンの地へ渡り、今回は森の奥まで侵攻するのでした。この時カエサルゲルマン人部族をライン河の向こうへと押し戻すと共に、ドナウ河を把握して以降ローマの防衛戦の構想(=現在のヨーロッパ)を固めるのです。

ゲルマン人ライン河の森の向こうに押し返し、北西ガリア一帯を安定させたあと、今度は現ランスで全ガリア部族長会議を開きます。この時裏切りを主導した部族の長を処刑し、ローマと友好関係を結ぶ意味、結ばない意味を示して一旦ガリアは平定された、と思われた。

火種

しかしガリア人の盲目的な自由への渇望は消えることなく、次の年、全ガリアが一致してローマに、カエサルに反旗を翻すことになるのです。

ガリアに登場した一人の若者によって、決してまとまることのなかったガリア人が一斉に反ローマに立ち上がることになるのでした。

 

 

ルテティア=パリ

カエサルが全ガリアの部族長会議を開いた場所、ルテティアはセーヌ川のほとり、パリシー族の街でした。このパリシー族の街が後世「パリ(Paris)」と呼ばれるようになったわけです。カエサルガリア戦役を展開していた当時、今は世界を魅了するパリの街はまだ、洗練とは無縁の辺境の田舎町。

今でいうところのパリジャン、パリジェンヌはみんな分厚い毛皮を纏った辺境の民だったと思うと、不思議です。

 

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