ガリア戦役7年目のドラマは、後の時代に生きる人にとってはローマの勝利という結末のわかっている話であり、ワクワクして歴史を辿りながらも知っている結末に向かってその叙述もできるわけだけど、当時その現場にいた当事者でるローマの軍団兵は薄氷をふむ思いで生きるか死ぬかの境を彷徨ったでしょうし、ガリアの人たちは「自由」というその一点に向かって幻のような希望の光を見ていたでしょう。でもカエサルだけは、困難と混乱の最中であっても冷静に、結末への細く蛇行する一本の道が見えていて、それを着実に辿っていた、そんな風に思えます。
B.C.52年、いままでローマに恭順を示して反乱など起こすことのなかった中部ガリアが一気に反旗を翻します。
理由の一つは、皮肉にもローマ軍によっておとなしくなったゲルマン人。ガリアにとってのゲルマンの脅威がなくなると、ローマの下で生きなくても良いのではないか?という錯覚がもたげてくる。もともと自由にガリアの地で生きた人々にとって安全が確保されると「自由」が欲しくなるのは当然かもしれない。
理由のもう一つは、そこに人々の想いを統率する人材が現れたことでした。民族統一など眼中になかったバラバラなガリア民族をまとめる能力を持った若者、その名はヴェルチンジェトリクス(Vercingétorix B.C.72-B.C.46)。
彼は南仏属州に隣接する土地に住むオーヴェルニュ出身で、反ローマ派として育ち、やがてオーヴェルニュの族長となります。今までのガリア人には備わっていない強力なリーダーシップと戦略的思考を持ち合わせていた彼はほとんどのガリア部族を束ねて反ローマに勃つことになります。
ヴェルチンジェトリクスの肖像模るコイン
前年の冬、連戦連勝のローマ軍に打撃を与えたガリア北東部の反乱。それを火種にガリア人の自由への渇望とヴェルチンジェトリクスの登場が全ガリアが蜂起するという事態につながるのでした。
ヴェルチンジェトリクスとカエサルはチェスのコマを進めるがごとく、一手、また一手と進み、戦況はあるひとつの場所アレシア(Alesia)へと向かっていきます。
ヴェルチンジェトリクスは、ガリアで冬営中のローマ軍と北イタリアで過ごしているカエサルとの分断を図ります。
カエサルは北イタリアにいながらヴェルチンジェトリクスという人物の登場とガリアの動きを正確に把握していました。カエサルはヴェルチンジェトリクスの意図を巧みにかわしてガリアで冬営中の軍団と合流します。
冬が終わると、いままで平穏だった中部ガリアが一斉にローマへ反旗を翻す。そこへカエサル率いるローマ軍団が抑えにかかる。ローマ軍の行手を阻む街があれば容赦なく蹂躙し、カエサルは中部ガリアの外縁から螺旋を描くように進軍します。モンタルジー、チェナブム(現オルレアン)、サンセルといった地での戦いに勝利して、難攻不落と思われたアヴァリクス(ブールジュ)もローマの攻城兵器群が完成を見た時点でガリア人は戦意喪失、ローマ軍の完全勝利となる。カエサルは軍団侵攻の軌跡が渦の中心へ向かうように、次のターゲットをヴェルチンジェトリクスの故国オーヴェルニュの首都ジェルゴヴィア(Gergovia)に定めました。
ヴェルチンジェトリクスが立てこもったジェルゴヴィアは、三方を平原に、背後を山に囲まれた天然の要塞でここを攻略することはローマ軍としても困難を極めます。
カエサルのローマ軍はこのジェルゴヴィア攻略を断念して撤退をする。戦史上「敗戦」と記録されるこの戦いもカエサルとしては織り込み済みのことではなかったかと思う。ジェルゴヴィアは小高い丘の上で背後には山と天然の要塞で、この地勢を見た時に最初から陥せるとは思わなかったのではなかろうかと。カエサルは無茶な戦闘による犠牲避け、撤退を選択する。敗走と見せかけてヴェルチンジェトリクスをジェルゴヴィアから引っ張り出す意図があっただろう。なので「敗走」と記録されるにしても、鉄壁の布陣で撤退し、ヴェルチンジェトリクスの追撃による被害はほぼなかった。
カエサルはこの撤退によってヴェルチンジェトリクスをジェルゴヴィアからおびき出し、この後ヴェルチンジェトリクスへローマ軍の得意な会戦を仕掛ける。
ヴェルチンジェトリクスはこれにはのらず、小高い丘の街「アレシア(Alesia)」に逃げ込みます。ローマに勝利したジェルゴヴィアと似た、丘の上の街であることから、アレシアでの籠城戦によってローマに勝てるとヴェルチンジェトリクスは考えた。
カエサルは逆に、ヴェルチンジェトリクスがアレシアに入城したこの時点で勝利を確信したのではないだろうか。丘の上の街としては同じでも、背後に山をいただくジェルゴヴィアと違い、アレシアは360度平原に囲まれる小高い丘の上の街。街を完全に包囲することができるアレシアは地勢的にジェルゴヴィアとは比較にならない。
ルネサンスの建築家によるアレシア攻防戦図
ヴェルチンジェトリクスのガリア軍8万がアレシアに立てこもり、
カエサルのローマ軍は5万足らずで包囲戦を仕掛ける。
更にヴェルチンジェトリクスはガリアの各部族にアレシアでともに戦うことを呼びかけた。それに呼応したガリア部族が送った戦力は総勢25万。
カエサルは5万足らずの兵でアレシアを包囲しながら、外からの25万ものガリア軍と戦わなければならなくなった。一時は籠城攻略戦の様相を示したアレシアの戦いでしたが、同時に背後からの大軍勢とも戦わなければならなくなった。
カエサルは両面からの敵に備えるため、アレシアに向けた内側の包囲網と、外側の防衛網を準備します。工兵に変身したローマ軍団兵はこの包囲防衛網を素早く建設します。カエサルはこの包囲防衛網について「ガリア戦記」の中でとても詳細な記述を残しています。ヴェルチンジェトリクスがアレシアに入って約1ヶ月、ローマ軍団兵は全長18km、内と外に向けた複雑な包囲防衛網をローマ軍はほぼ完璧と言っていい状態で完成させました。
5万 vs 34万のアレシアの激闘はわずか3日で決したといいます。カエサルはアレシア周辺の地形を全て理解した上で5万弱の兵力で戦えるための包囲網と防衛網を設計し実際に作り上げた。勝敗は決戦が始まる前に決まっていたと言ってもいいかもしれません。しかし7倍近くの、前後両面からの敵との戦闘は激烈を極めます。
カエサルは戦闘中に味方がどこからでもカエサルがどこにいるかがわかるように真紅の大マントを羽織り陣頭指揮をとる。敵から認識されやすいリスクもあるが、それ以上に味方の指揮命令系統が機能するために、何よりも部下の兵士たちの士気を鼓舞するためにそうしたのでした。カエサルはアレシアをぐるっと一周する包囲防衛網の中を馬に乗って駆け巡り、戦況を見極め次々と的確な指示を出していく。ローマ軍は数的には圧倒的不利な戦いに勝利を収めます。
ヴェルチンジェトリクスはアレシアの丘の上から、ガリア軍が総崩れになるところを眺めるしかできなかったのだろうか。
歴史上ここまで圧倒的劣性な兵力で勝利したことはアレクサンダー大王と並び、更に外と内、両面からの攻撃を跳ね返しての勝利は、戦史上、後にも先にも例がない。アレシアの戦いの勝利は、事前の敵情と地勢の正確な把握、張り巡らせた包囲防衛網の発想力とそれを短時間で実現した技術力、そして戦況を見極めながら臨機応変に的確な指示を出したカエサルと、さらに正確に司令官の意図通り作戦を遂行したローマ軍の力によるものでした。
勝敗が決したあと、ヴェルチンジェトリクスはカエサルの元に現れ、自らを差し出すことで、他のガリア人を許すよう申し出た。カエサルはそれに応じました。
下の絵は後世、1899年フランス人画家がその時の様子を想像したもの。
アレシアの戦いは終わり、このアレシアでの34万人のガリア人蜂起に対してのローマ軍とカエサルの勝利は、実質ガリア全土の平定とガリア戦役の終了を意味しました。
実質7年で達成したガリア平定によって、
ローマにとっては本国の安全保証が盤石になり、領土がガリア全域に加えブリタニアまで広がることになった。これにはローマ市民も元老院も熱狂という形で祝った。
カエサルにとって、揺るがない実績と強力な支持基盤を持つことを意味し母国ローマの国家改革に向けて理想的な状態にすることができたと言える。
元老院の反カエサル派にとって、カエサルが敵であることが浮き彫りとなり、さらに「元老院最終勧告」の対象、抹殺すべき存在であることが明確になった。
ただ、カエサルが手に入れた大きな力は、元老院派が伝家の宝刀「元老院最終勧告」抜いたとしても真っ向勝負ができる状態となっていたのでした。これは次のお話。
ヴェルチンジェトリクス
カエサルはヴェルチンジェトリクスの能力を高く買っていました。もし彼がローマ人であったなら、最高の副官になったかもしれません。しかしヴェルチンジェトリクスはガリア人でした。この能力の高さが再びローマの脅威となる可能性があることから、ローマの安全保障上オーヴェルニュの若者を生かしておくという選択はありませんでした。ヴェルチンジェトリクスとはそれほどまでにカエサルに認められた人材でした。
アレシアの戦いの6年後、カエサルが行ったガリア平定を記念する凱旋式でローマ人からの衆目を晒したあとにヴェルチンジェトリクスは静かに処刑されたのでした。
後世にはヴェルチンジェトリクスはフランス最初の英雄として讃えられます。
1860年頃にナポレオン3世は当時の発掘調査によって、アレシア(Alesia)が現アリーズ・サント・レーヌ(Alise-Sainte-reine)であると結論づけ、この地にヴェルチンジェトリクスの銅像を建てました。しかし、その後もアレシアの場所の正否を巡っては長いこと論争がありましたが、現在では航空写真にカエサルが作った包囲網のあとが確認できたとされ、2004年、いったんこの論争は決着したことになっている(実はまだ異論はある模様)。