cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

カエサル14 ガリア戦役 イギリス〜ドーヴァー海峡横断

B.C.55年、カエサルがもう一つ行った大事業とは、ドーヴァー海峡を渡りブリタニア(イギリス)に上陸したこと。これもまたローマ人初の出来事でした。

ゲルマンの地でゲルマン人や北部ガリアの諸部族に反ローマの支援を行っているのがブリタニアにいる民族であることが判り、カエサルブリタニアへの遠征を考えていました。このときすでに夏も終わり遠征の時間はそれほど残されておらず、最初から目的は本格的な征服行ではなく「実地踏査」。ガリア戦記にも記された通り、このときカエサルブリタニアを、ゲルマンのように排除するではなく、ローマ世界に組み入れることをすでに念頭に置いていた。

カエサルは、この年100隻の軍船でドーヴァー海峡をわたります。それを察知したブリタニア人が迎え撃つ準備をしていたことと、大西洋という内海ではない外洋の波に慣れていないローマの船団は、さらに天候にも邪魔されて、ブリタニアへの接岸にかなり苦労をしたといいます。特に騎兵を乗せた船が遠く流され、到着が遅れ上陸前から始まっていた戦闘でローマ軍は大苦戦を強いられた。

遅れに遅れたローマ騎兵が到着すると戦況は一変、一気にローマ優勢となったところでブリタニアから休戦の申し入れがくる。講和が結ばれ人質を差し出させて戦闘は終了となった。

ところが、ローマ軍が船の補修に手間取り出航が遅れ、兵糧が不足しているのを知ったブリタニア人は講和を反故にしてローマ軍に攻め込んできた。

一度講和を結んでおきながら反故にして剣を向けてきたブリタニア人の行為。本来なら徹底的に殲滅となる場面ではあるのだけど、ここは未知の土地ブリタニアカエサルは軍団の安全確保を最優先に、再びの襲撃を一蹴したあと、ブリタニア人に対してはさらに多くの人質を差し出させることで手打ちとした。軍船の補修が完了するとブリタニアを離れたのでした。

波乱万丈のブリタニア初上陸ではあったのだけど、もともとからしカエサルはこの時のブリタニア遠征の目的は実地踏査のためと割り切っていたこともあり、目的は十分に果たしての帰還でした。ドタバタですったもんだあったとしても、本国ローマの人々は史上初の快挙に沸いた。カエサルからの報告に元老院はこれまた、前例のない20日間もの祝祭を開いたのでした。

開けてB.C.54年(カエサル 46歳)にカエサルは第二次のブリタニア遠征を実行します。軍団冬営中に多くの軍船の造船し、2度目のブリタニア遠征に臨みます。実地踏査の前回に対し、今回はブリタニアをローマに組み入れるための遠征です。

ローマ軍は2度目となったドーヴァー海峡は荒れた海に翻弄されながらも特に大きなトラブルもなくブリタニアに上陸します。ベルガエ人が移住している南部を抜け、現在のロンドン付近を経由してテムズ川を超え、現在のケンブリッジのあたりまで進みます。ブリタニア人はこの間、森の中に潜みゲリラ戦を仕掛けたびたびローマ軍を翻弄しますが、ローマ軍はこれを一蹴します。大規模な戦闘もないまま多くのブリタニア部族が講和を申し入れてきた。季節的にも潮時を悟って、カエサルブリタニア遠征を切り上げます。ブリタニアの各部族からの大勢の人質を得たおかげで船団が足りず、二回に分けてガリアへ戻ることになったのでした。ローマ人にとって、まったくの未開の地ブリタニアカエサルによって、知っている土地になり、この後150年の間に現在のスコットランドの手前までがローマ帝国の領土となるのです。

いい写真が残っておらず残念なのですが、イギリスのドーヴァーの海岸線にはこんな白い絶壁が長く連なります。ブリタニア人、のちのイギリス人は大陸から帰還するときに海の向こうに聳えるこの壁を見て、故郷に戻ったことを実感できたそうです。カエサルブリタニア遠征でこの壁を見たかどうか。

イギリス人は大英帝国の始まりを、このカエサルがイギリスに上陸したときだとしているそうです。実際、未開の辺境であったブリタニアがローマの支配によって文明がもたらされた。文明人としてのスタートをカエサルに求めたいとする、イギリス人のお茶目なところは、自分たちのルーツをトロイアに求め、伝説の狼に育てられたロムルスとレムスが紀元前753年4月21日に建国した「ことになっている」ローマ人そのものに通じるものがあって微笑ましい。

 

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