cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

エジプト 〜カイロ

世界遺産やエジプトの遺跡などは人間の寿命程度の期間何年経とうがそれほど変わりはないのだけど、街の様子というのは随分変わる。何年か前にマレーシアのクアラルンプールに10年ぶりに行ったら、すっかり近代都市に様変わりしていた。中国のとある地方都市に10年ぶりに行ったら未来都市になっていた。カイロの街に行ったのは1993年だから今から26年前。発展の途上にあった街の風景にとっては26年というのはとてつもなく長い。今どんな街になっているのだろう。

と言っても僕のカイロ滞在はとても短い時間で、カイロについたと思ったらギザ へ行って、ルクソールへ行ってと街を堪能するというほど長くは滞在しなかった。

なので、少しではあるけどカイロの街を。

 

あまり意識していなかったけど、現代のエジプトはイスラムの国で、街にはモスクがあり日本ともヨーロッパの国とも違う空気感でした。

当時カイロの街は今まで行ったことのあるどの街よりも埃っぽかった。多分すぐそばの砂漠の細かい砂が舞っているからなのだと思う。写真に写っている走っている車が時代を表していて、いかにも昔の風景。この景色は随分変わったことでしょう。

 

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■ムハマンド・アリー・モスク

エジプトも今はイスラムの国ですが、そこに至るまでには長い道のりがありました。

3000年以上続いたエジプト王朝も、紀元前532年にペルシアに支配され、紀元前332年にはマケドニアアレクサンダー大王に征服された。その時プトレマイオス朝というギリシア系の王朝としてエジプト王朝が300年続き、紀元前30年からはローマの皇帝直轄領となって実質的なエジプトは消滅しました。この時ローマのキリスト教公認に伴ってエジプトにもキリスト教が広まっていったのでした。やがて東ローマ帝国も衰退すると639年にイスラム帝国東ローマ帝国を追い出し、エジプトを支配した。この時からエジプトはイスラム国家となりました。1517年にはオスマン帝国支配下となったエジプトが、1798年のナポレオン遠征をきっかけに近代化と独立の道を歩み始める。

それを主導したのがムハマンド・アリーという人物でした。

前置きが随分長くなってしまったけど、この「エジプト 近代化の父」ムハマンド・アリーが建てたのがこのビザンチンスタイルの大きなモスクです。

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 モスクに入る前の中庭にあるのは、身を清めるための水場。日本と同じく、水で身を清めます。そして奥に見える時計塔の時計は、ルクソール神殿オベリスクをもらったお礼にとフランスが寄贈した物。今はもう動かない、この時計。

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 今、「モスク」と言われると、多くの人がこのムハマンド・アリー・モスクのようなビザンチンスタイルの建物を思い浮かべると思います。でも、この様式はもともと東ローマ帝国時代のイスタンブルキリスト教会の建物として生まれたスタイルだということはあまり知られていないと思います。

この様式は当時の東ローマ帝国の建築技術と芸術を集めて6世紀に作られたアヤソフィア寺院の形です。16世紀にイスタンブルを征服したオスマントルコのスルタン・メフメット2世がアヤソフィア寺院のあまりの美しさに、そのままモスクにしたのがこのスタイルのモスクの始まりなのです。

  

 モスクの中はたくさんのイスラムの装飾とカリグラフィの洪水です。

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モスクにはちょっと不釣り合いなこの豪華なシャンデリアは、フランスからの贈り物と現地で聞いた記憶があって、写真にもそういうメモがあったのだけど、今回改めて色々調べてみたのですが世間にそういう記述がどこにもないので、違うのかもしれません。

 

このビザンチンスタイルの特徴は中央の円形ドームをいくつもの半円や1/4円のドームがだんだんに支えている構造で、柱のない大きな空間を作ることができます。

イスラム教では敬虔に膝まずき、頭を床につけて祈りを捧げるので、モスクの床は全面カーペットが敷き詰められています。ムハマンド・アリー・モスクのカーペットには一人分の区画がわかるように四角い枠の模様が施されています。この大きな空間でたくさんの人がお祈りできるので、イスラム教とビザンチン様式の相性が合ったとも言えます。オスマントルコのメフメット2世がアヤソフィアをモスクに変えたいと思った時、「美しい」と共に「イスラム教に合う」という直感があったのだと思います。

アヤソフィアの詳しい話はまたいつか)

 

 

バクシーシ?

カイロに限らずなのですが、エジプトを歩いていると頻繁に「バクシーシ、バクシーシ」と呟きながら手を差し出してくる人が、大人も子供もたくさんいました。

「富めるものは貧しき者達に施しをしなさい」というイスラムの教えがあります。その施しの行為のことを「バクシーシ」と呼びます。本来これは良いことで、イスラム以外にも地域の富豪はその街の公共施設を作ったり、貧しい人たちに食糧を供給したりする精神は色々な時代、地域にはある。でも、いつの間にか金持ちがお金を配るのは当たり前と考える人が増えてきて、エジプトではさらに、観光客はバクシーシあたり前、観光客からチップをかすめ取ろうという行為にすり替わってしまっていたようで、僕はどうも気持ちよくはいられなかった。

でも、これは19世紀にヨーロッパから大量に入ってきた発掘者や観光客がエジプトの人たちをそういう風にしてしまったという可能性も大きい。近代で言えば日本人も責任は大きい。おそらく直近で言えば中国の人たちが、「おかしなバクシーシ」を増長させてしまっていると思う。素晴らしい遺跡や博物館、壮大なモスク、深い歴史を持った国、街なだけに、少し残念なところでした。

 

 

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