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ヴェネツィア 5 サン・マルコ大聖堂(サン・マルコ広場)

f:id:fukarinka:20210626115240j:plainサン・マルコ大聖堂(Basilica di San Marco)

5つのクーポラをもつ独特なフォルムのサン・マルコ大聖堂。聖マルコ(新約聖書福音書記者)を祀るこの聖堂は、ビザンチン様式を基本としながら時代を経てゴシックやルネサンス様式が織り交ぜられた、オリエントとヨーロッパが融合した見事な建築です。

*生い立ち

ヴェネツィア人は国の格を高めるため「国の守護聖人」を探していました。ヴェネツィア商人を各地に派遣して守護聖人を探し求め、ついに828年、当時イスラム教に支配されていたエジプトのアレクサンドリアにある僧院に「聖マルコの遺骨」があることを突き止めました。聖マルコは福音書を記した聖人として十二使徒の次に格つけられ、ヴェネツィア守護聖人として申し分ない。二人のヴェネツィア商人は僧院から「聖マルコの遺骨」買い付け(密買)ました。密輸が発覚しないように聖遺骸はイスラム教徒が忌み嫌う豚肉に覆われ守られるように運ばれて、ついに聖マルコは何の縁もゆかりもないヴェネツィアに到着。守護聖人としてヴェネツィア人に熱狂的に迎えられたのでした。

サン・マルコ聖堂はその時から聖マルコの遺骨を安置するために建設が始まり、さらに11世紀の改築を経て、今の姿に完成したのは15世紀になってからでした。聖マルコは今もこの聖堂に眠っています。

またサン・マルコ聖堂は共和国総督(ドージェ/Doge)のための礼拝堂として位置づけられていました。寺院、大聖堂でありながら大司教座が置かれるようになるの19世紀になってからで、それまでの800年間は、ここには聖職者はおらず、ドージェが選ぶ「参事会員」と呼ばれる係によって管理されていたといいます。このこともヴェネツィアならではと言っていいかもしれません。

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ファサード

聖堂は正面に5つの門・アーチをもち、破風部分には「聖マルコの遺体の収容」の場面がそれぞれモザイクで描かれています。

 

サン・マルコ大聖堂には1204年、第4回十字軍遠征でコンスタンティノープルから持ち帰った質の高い「戦利品」が多数みられます。中央の門のアーチ上に見える「4頭の馬のブロンズ像」はその代表的な一つ。

この馬像は紀元前4世紀古代ギリシアの彫刻家リュシッポスによる作品。

それが後世コンスタンティノープルに渡り、

1204年に十字軍遠征時、当時のドージェ・タンドロが戦利品としてヴェネツィアに持ち帰り、サンマルコ大聖堂のファサードに置いた。

さらに

1798年にここを占領したナポレオンが、これまた戦利品としてパリに持ち去った。

そして

1815年オーストラリアの介入でヴェネツィアに返還された。

この馬像の歴史はちょっと複雑。現在本物は聖堂内に置かれ、外にあるのはレプリカです。

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*聖堂内部

ビザンチン様式の聖堂は中央の身廊、左右の側廊の長さが等しいギリシア十字の三廊式。五つのクーポラによる高さ28.25mの広い内部空間内部空間が広がっています。

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そして壁面は黄金のモザイク画で埋め尽くされています。

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クーポラの小さな窓から光が差し、黄金のモザイクを照らす様子は神々しい。

 

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 ヴェネツィア共和国は1381年キオッシアの戦いで宿敵ジェノヴァを破り、地中海の制海圏を手に入れます。そしてオリエントとの貿易で莫大な富を築いたヴェネツィアは、その象徴であるサン・マルコ大聖堂にもその富をつぎ込んだのでした。各地で得た豪奢な戦利品の修蔵、煌びやかな黄金と2000もの宝石をあしらった主祭壇の衝立、壁面全体をおおう黄金のモザイク画。

アドリア海の女王となったヴェネツィアの精神的支柱でありつづけるサン・マルコ大聖堂ヴェネツィアの繁栄と重なって、「黄金聖堂(Basilica D'oro)」となっていったのでした。

 

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