cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

ヴェネツィア小史

 

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6世紀頃 蛮族の侵入

フン族の侵入によって、海へ逃れラグーナの島々に潜んだヴェネト人によってヴェネツィアの歴史が始まる。

697年 共和制が始まる

パオルッチョ・アナフェスタが初代総督(ドージェ Doge)に

828年 聖マルコの遺骸買取

ヴェネツィアの商人が、アレクサンドリアの教会から聖マルコの遺骸を買い取る。同時に聖マルコの遺骸を安置するサンマルコ寺院の建設がはじまる。こうしてヴェネツィア守護聖人サンマルコの街となった。

1104年 国営造船所完成

1204年 コンスタンティノープル征服

第4次十字軍、総督エンリコ・ダンドロにより遠征先のコンスタンティノープルを制圧。これをきっかけにオリエント貿易利益を独占。このときコンスタンティノープルからたくさんの戦利品を持ち帰る。「4頭馬車像」もそのひとつ。

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1271年 マルコポーロ出航

16歳のマルコと父、叔父の三人で25年の旅に出る。そのうち17年を中国で過ごした。

1284年 ドゥカート金貨鋳造

ヴェネツィアのドゥカート金貨は純度が高く安定していた為、国際基軸通貨として流通。

1309年 ドゥカーレ宮殿の改築

改築の結果、現在の姿に

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1310年 十人委員会の発足

共和国をあらゆる危機から守る為の諜報機関。もともと反乱の共謀者を裁く臨時委員会だったが、1335年には共和国警察としての役割を担うようになる。

1355年 ドージェの国家叛逆

第55代総督マリーノ・ファリエルが共和制を君主制を敷く為クーデターを企てるが失敗。ドゥカーレ宮殿の総督で唯一肖像を塗りつぶされ、記録を抹消された人物。この事件によって十人委員会が常設組織となる。

1381年 キオッジアの戦い

宿敵ジェノヴァ(Genova)を破り地中海の制海権を握る

1489年 キプロス島獲得

1571年 レパント沖の海戦

ヴェネツィアと連合軍 対 オスマン帝国との戦いでオスマン帝国海軍に勝利。

このときギリシアアテネオスマン帝国に支配されていた。当時あろうことか弾薬庫として使用されていたパルテノン神殿に、これまたあろうことかヴェネツィア軍の砲弾が着弾。その結果、パルテノン神殿は今にみられる廃墟と化した。それまでの2000年もの間、かなり保存状態よく残っていたというので残念でならない。

1576年 ペスト流行

1591年 リアルト橋完成

1514年火災で木造の橋が消失。石の橋として現在の姿に再建。

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1630年 再びペスト流行

人口激減

1703年 ヴィヴァルディがピエタ慈善院の音楽教師に就任

1720年 カフェ・フローリアン開店

1752年 ラグーナを守る防波堤完成

1775年 カフェ・クアドリ開店

1792年 フェニーチェ劇場完成

1797年 ヴェネツィア共和国の崩壊

ナポレオンの侵攻により領地を失い、1000年以上続いたヴェネツィア共和国が終わる

1864年 鉄道の開通

1866年 イタリア王国への統合

1895年 第一回ビエンナーレ開催

1912年 サンマルコ広場の鐘楼再建

1902年に地盤が崩れて倒壊した鐘楼が再建された

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1932年 第一回ヴェネツィア映画祭開催

1979年 カーニバル復活

1162年に始まったとされるヴェネツィアのカーニバル。宗教抗争に勝利したことを祝ってサンマルコ広場で踊り踊ったことが始まりだったとか。やがて身分を問わない自由を、仮面をつけることでヴェネツィア市民は謳歌するようになった。ナポレオンの侵攻後、仮面が禁止となりやがてカーニバルそのものが禁止されることになりました。200年の時を経て1979年、カーニバルが復活。いまや300万人が訪れ参加する盛大な祭りとなりました。

 

ヴェネツィア共和国は消えたけど、アドリア海の女王として築かれたヴェネツィアの街は時が止まったかのように佇むのです。世界にふたつとない街、ヴェネツィアヴェネツィアであることはこれからも変わることがないことを祈るばかり。

 

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