cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

スイス レマン湖畔 〜 シヨン城

f:id:fukarinka:20200411183843j:plain

シヨン城(Chateau de Chillon)はレマン湖につきだした小さな島の上に建ち、その姿は湖に浮かぶようです。シヨン城を含むこの辺りはレマン湖畔の中でも最も美しいといわれています。

 

僕は早朝にモントルーの駅からレマン湖沿いを歩きシヨン城を目指しました。朝のレマン湖はとてつもなく気持ちがよいのです。湖の水面はとても穏やかで鏡のようでした。

かもの群や釣り人に出会いました。

f:id:fukarinka:20200411180117j:plain

のんびり歩いて40分ほど、初めて見たシヨン城は朝靄にけむるアルプスの山々をバックに、レマン湖にその姿を落としていました。湖に浮かぶようにたたずむその姿はとても神秘的です。

僕がモントルーを訪れたのは、実はこの景色を見たかったから。 

f:id:fukarinka:20200411175957j:plain

 

 

シヨン城が建っている場所にはもともと古代ローマの遺跡がありました。9世紀になってから、そのローマ遺跡を土台にしてシヨン城は建てられたのです。そして現在見られるようなカタチになったのは13世紀。当時の城の所有者であった「シヨン司教」にあやかって、シヨン城と呼ばれるようになったと言います。

f:id:fukarinka:20200411175831j:plain

 

イギリスの詩人バイロンは1816年にここを訪れた時、シヨン城の地下に幽閉されたある囚人のことを知り、叙事詩”シヨンの囚人”を謳います。

f:id:fukarinka:20200418194721j:plain

その囚人とは、後にジュネーブ独立の英雄となるフランソワ・ド・ボニヴァール。

カトリック信者であるフランスのサボア公がレマン湖一帯を支配していた1530年に宗教改革派として捕らえられ、宗教改革派がこの地を取り戻す1536年までの6年もの間、彼はこのシヨン城に幽閉され、後半の4年間は地下牢で鎖に繋がれて過ごしたのでした。

「シヨンの囚人」はボニヴァールがこのシヨン城に6年間幽閉されている間、そこで様々な感情を「私」が吐露する形で描かれます。この叙事詩がイギリスで発表されるとたちまち評判になり、その舞台となったこの場所にイギリス人が大挙してここに訪れるようになったのでした。

(左は国会図書館にある1925年・大正14年に発行されたもの。下のリンクから無料で閲覧可能です)

 

 

 山の上から朝日が昇り、僕はシヨン城に差し込むのを湖に張り出した桟橋で、じっと待っていました。朝の景色というのはどこもきれい。人が少ないくて静かだし、空気はきれいだし、刻々と変わっていく光の様子は眺めていて全く飽きません。

f:id:fukarinka:20200411180045j:plain

 

f:id:fukarinka:20200411180104j:plain

 

 

シヨン城全体に朝日が当たった頃、ちょうど城内見学ができる時間となりました。城内にはボニヴァールが幽閉された地下牢や、バイロンが訪れたときに残した直筆サインなどがあったようです。

僕はちょっと迷った後、それらを見るよりもモントルーを離れるぎりぎりまで、この景色を眺め続ける事に決めました。

f:id:fukarinka:20200411180014j:plain

「 シヨンの囚人」は、「私」が鎖を解かれ地下牢から出るところで終わります。

その瞬間「私」は自由を得て牢獄を出るはずなのだけど、ため息を漏らすのです。

なぜなら牢獄の外の世界は、争いが絶えることなく「私」の愛するものはすでに皆、葬られてしまった。いったいどれだけの時間を過ごしたのか分からないけど、牢獄の小さな窓からアルプスの山々や、レマン湖の静かな湖面、風の渡り、鳥のさえずりが感じることができた。考える時間を取り戻すことができた。そして何より牢獄の中では蜘蛛とネズミと平和に過ごし、この狭い牢獄で彼らと共存することができた。そんな平和な生活に慣れきってしまった「私」は、牢獄を出て自由を得るのだけど、ため息を漏らすのでした。バイロンはそんな風に「私」ボニヴァールを描いたのでした。

 

レマン湖とはそういう場所なのだと、シヨン城を前に僕は実感しました。

 

dl.ndl.go.jp

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com