cafe mare nostrum

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カンピドリオの丘 〜フォロ・ロマーノ界隈1

カンピドリオ(カピトリーノ)の丘 (Monte Campidoglio / Capitorino)は僕がローマで最初に訪れた場所です。当時郊外のホテルから無料送迎バスに乗って最初に降りたのがカンピドリオ広場の下。ここから丘の頂上に向かう美しい階段のような坂道、コルドナータ(Cordonata)を登っていくとミケランジェロがデザインしたカンピドリオ広場に到着します。当時夏真っ盛りで、大した距離ではないのに広場に着く頃には汗ビッショりになったことをよく覚えています。

カンピドリオ広場 (Piazza del Campidoglio) 

現在ローマ市庁舎があるこの広場はルネサンス期にミケランジェロによって設計されました。ここは建築史上はじめてのバロック様式の広場ともいわれています。広場は3つの宮殿に囲まれており、現在正面のセナトリオ宮殿は市庁舎として、両サイドの宮殿のうち向かって右コンセルヴァトーリ宮(Palazzo dei Conservstori)はカピトリーニ博物館(Musei Capitlini)として機能しています。

 

この広場はローマ劫略(Sacco di Roma 1527年)でローマが破壊し尽くされた約10年後、当時の教皇パウロ3世がミケランジェロに整備を託しました。ミケランジェロバロックの広場構成、幾何学の床模様といった芸術家の意志と、当時北方の新興国によるイタリアへの侵攻に対する抵抗をこの広場に込めたと言います。

この広場の中心付近にはイタリアの「POINT ZERO」があり、それは「すべての道はローマに通ず」の全ての道がたどる先がカンピドリオ広場であることを示しています。そしてそこに立つのは賢帝マルクス・アウレリウス五賢帝の中でも最も優れた哲人皇帝の騎馬像をローマの中心=世界の中心に据えて、再びローマが世界の首都(カプトゥ・ムンディ Caput Mundi)であるという意志を込めたのでした。

約2500年前、カンピドリオの丘が「カピトリヌス(Capitlinus)」と呼ばれていたころ、ローマを構成する7つの丘のうち、ローマ発祥の丘である「パラティノの丘(Palatinus)」と並んで信仰の中心として最も神聖な場所がこの「カピトリヌスの丘」でした。

カピトリヌスの丘はローマの3守護神が祀られるもっとも神聖な場所として存在し、紀元前509年にローマが王政から共和制に変わる時に、全能の主神ユピテル(Jupiter)、ユピテルの妻ユーノー(Juno)、ミネルヴァ(Minerva)を祀る神殿が建てられました。以来何度も破壊や焼失を経て、再建を繰り返しながらローマの信仰の中心として在り続けたのでした。

破壊荒廃と再建を繰り返していたカピトリヌス(カンピドリオ)の丘の上は、6世紀ローマの衰退、キリスト教化とともに荒れていき中世には神殿の基壇の上にキリスト教会が建てられたといいます。そしてルネサンス期に前述の通りミケランジェロによって、カンピドリオ広場として生まれ変わる。

幾何学模様の広場はバロックの建物によって囲まれ、古代ローマの名残はほとんど見られない。しかし広場中央にはローマ帝国五賢帝のひとりマルクス・アウレリウスの騎馬像(現代に伝わる唯一の皇帝騎馬像)が立ち、古代ローマの栄華と再びカプトゥ・ムンディ(世界の首都)として存在することがミケランジェロのメッセージとして残されている。

セナトリオ宮殿(現市庁舎)の脇を抜けると、そのわき道の円柱の上にローマ建国の伝説「カピトリーノの狼(Rómulo and Remo statue)」の像があります。

ローマは紀元前753年雌オオカミに育てられたロムルスとレムスの双子の兄弟によりパラティノの丘に建国された。というのがまことしやかに、半ば史実として語られるローマ建国の伝説です。(こういったヨーロッパで時々出てくる、半ば伝説と歴史が示す事実が渾然一体となったローマの街や歴史は、とても愉快でとても奥が深い)この像は、その雌の狼が幼いロムルスとレムスに授乳する姿を表している、ローマを象徴する彫像になります。

 

そして、そのまま細い道を進むと程なく視界が開け、目の覚めるような景色が飛び込んできます。かつてのカプトゥ・ムンディ(世界の首都)そのもの、古代ローマの中心フォロ・ロマーノがそこに現れるのです。

 

 

 

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