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コンスタンティヌスの柱

鉄の拘束具をつけられたような大きな円柱があります。僕は最初、これがコンスタンティノープルを攻略した後のオスマントルコが、東ローマを手中におさめたことを示すために行なったデモンストレーションなんだろうか、と思っていました。でも実際にはこの円柱のこの姿は征服の証とは反対の意味があることを知りました。

◾️コンスタンティノープルの記念碑

330年5月11日にローマ帝国の大帝コンスタンティヌスがここを「コンスタンティノープル」と改め、新しいローマの首都とした当時、コンスタンティノープルとして生まれ変わった新いローマを記念して「コンスタンティヌス広場(Folum Constantinus)」という円形の広場作られ、その中心に「コンスタンティヌスの柱」は建てられました。

直径3m、高さ35mの巨大な円柱はローマ皇帝を象徴する高貴な紫色の石、エジプト産紫色花崗岩で作られました。基台を含むと、実際の高さは50mに達したといいます。そしてその一番上には大帝コンスタンティヌスのブロンズ像が立ち、1105年までの約800年の間コンスタンティノープルの街を見守っていました。

 

◾️苦難の記念碑

地震地帯でもあるコンスタンティノープルではアヤソフィアのドームを崩壊させた地震をはじめ大きな地震が何度も発生しています。コンスタンティヌスの円柱もこれら地震によって被害を受け、最終的にはオスマントルコによってコンスタンティノープルがイスタンブルと変わった後60年ほどの1510年の地震でついに円柱に亀裂が入りズレが発生します。この時にイスタンブルの人たちは、コンスタンティヌスの柱の倒壊を防ぐために鉄の輪(チェンベッリ)で補強したのでした。この頃からイスタンブルの市民はコンスタンティヌスの円柱を「Çemberlitaş(チェンベッリタシュ)=輪帯石」と呼ぶようになったと言います。

更に1779年にはこの周辺で大火が発生し、その熱によって紫色花崗岩には深刻なダメージが与えられます。鉄の輪(チェンベッリ)の役割は更に重要度をま増すことになるのでした。

 

◾️トルコ人がローマの記念柱を守った理由

オスマントルコとなった後になっても「コンスタンティヌスの円柱」は守られ続けたのですが、これはオスマントルコの市民の間では「この円柱が崩壊するとこの街が滅びる」と噂され、ローマの記念柱はオスマントルコの人々によって崩壊の危機から守られてきたわけです。

そのあまりにも痛々しい見た目から、僕はてっきり征服の象徴としてこの姿になっていたと思っていたわけですが、実際には傷ついた円柱を守るためにその鉄の輪が加えられ、さらにこの円柱を守っていたのはオスマントルコの人々だった。イスタンブルになる前の、コンスタンティノープルができた時に作られたこの円柱は、オスマントルコの人たちにとっての街の運命を司るものとなり、破壊ではなく守るべき対象となったのでした。

 

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