cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

エフェソス 0 人々の営みが文化となった街

かつてローマ帝国のアジア属州の多くの都市を束ねる首都として経済的にも文化的にも大繁栄を遂げた美しい街。東西の文化・経済の橋渡しの役目を果たした大都市であり、また古くから豊穣の女神アルテミスを信仰しながら新しい宗教であったキリスト教も受け入れた懐の深い街、それがエフェソスです。人々の暮らしが感じられ、ローマ建築の傑作を抱える美しい街並みは廃墟となった今でも人々をひきつけ、エフェソスの輝きを伝えています。

豊穣の女神の街

エフェソスは紀元前2000年頃に起源を持つといわれ、当時は現在の場所から少し離れたアルテミス神殿がある場所に建設されたというのがひとつの説となっているのですが、誰が作ったのかなどわかっていないことが多い。後にアルテミスと呼ばれるようになる地母神ギべレを祀る街として誕生してから、気候的にも通年にわたって過ごしやすいこの場所には少しずついろいろな民族が集まり定住したと言われています。

文明の交差点

その後紀元前10世紀にイオニア人がこの地を征服してギリシア都市として栄えます。ここはミレトス文明とイオニア文明が交差する場所であったため、多くの人の行き来によって、さまざまな情報が集まり商業が盛んになると同時に芸術、科学、哲学が発展し、この時期に文芸都市としての下地が作られます。

アレクサンダー大王の都市

紀元前4世紀アレクサンダー大王がこの地を征服した後、アレクサンドリア、ペルガモンと同じくヘレニズムの都市として整備されることになります。もともとアルテミス神殿のある場所にできたエフェソスの街は、この当時には沼地化が進んで疫病が発生するなどの問題があったことから、この地を託された将軍リュシマコスは元々の場所から少し離れた現在の場所へと街全体を移したのでした。この時に新たな都市計画による新しい街づくりがなされ、新しい街は一流の職人や裕福な商人を引き寄せたのでした。これによってエフェソスは経済的に文化的に大きく発展していきます。

ローマの街へ

紀元前190年に古代ローマの支配下になり、初代皇帝アウグストゥスの時代に、当時のアジアのローマ属州の首都となり、文化的にも政治的にも商業的にも最盛期を迎えます。小アジア最大級といわれた港にはエジプトやギリシア、ローマからの商船がひっきりなしに往来して、港は香辛料やワイン、陶器や羊毛などが溢れていました。東西貿易の交差点であることが多くの人を引き寄せ、商業が広がり経済が豊かになります。金融業も発展して「小アジアの銀行」と呼ばれるまでになるのです。さらに優れた芸術や科学、学問もエフェソスに集まって、25万人といわれる人々が暮らす大都市へと変貌していったのでした。

現在に残るエフェソスの遺跡のほとんどはこの頃のローマ属州の首都の名残です。

衰退と新しい時代の息吹

エフェソスの街は海岸線の後退とともに衰退していきます。貿易の要だった大きな港は徐々に後退して、このことによって貿易は減少し経済的にも小さく萎んでいきました。3世紀、ローマ帝国の衰退と合わせゴート族がエフェソスに侵入し、街は破壊されエフェソスは壊滅状態となってしまうのでした。

その一方で、ローマ国教となったキリスト教にとってのエフェソスは、聖母マリアが晩年を過ごした場所であり、聖ヨハネが新約聖書を編纂した場所としてとても重要な場所でした。これによってエフェソスにはキリスト教の司教座が置かれます。街は破壊されてもエフェソスはキリスト教とともに生きながらえることになるのでした。

実際のエフェソスの街は自然豊かな山間にあり、ゆったりとした傾斜の道を歩くと山の景色と一緒に古代の都市を眺めながら進むことになります。廃墟ではあるのだけど、山間であることを活かしたその景観は、おそらく景観も緻密に計算された都市計画よるものだと感じられます。そして最後に行き着く先には、エフェソスの繁栄を支えた港とその象徴となる大劇場へと繋がっていくのです。

エフェソスの街歩きは地図の右下、どちらかというと古代の街の一番奥まった端っこからスタートします。

 

エフェソスにはアレクサンドリアにあるような世界一の蔵書を誇る図書館も、当時世界一高い灯台もありません。ペルガモンのローマ中から人が治療に訪れたという総合医療センターもありません。でも、そこを訪れた人々、そこを通り過ぎた人々、そしてそこで暮らした人々、その一人ひとりの営みが文化となり、世界都市へと花開いた。それがエフェソスという街なのかもしれません。

今から二千年前、25万人もの人々が暮らしが文化となって花開いたていたエフェソスの街を歩いてみましょう。

 

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